深谷忠記 寝台特急「出雲」|+−《プラスマイナス》の交叉《こうさ》 目 次  プロローグ  第一章 山陰・『怪談』への旅  第二章 出雲・日《ひの》御碕《みさき》の殺人  第三章 米子・皆生《かいけ》温泉の交叉  第四章 東京・疑惑の追跡  第五章 鳥取・砂丘心中  第六章 松江・反転した推理  第七章 京都・立ち塞《ふさ》がるアリバイ  第八章 特急・13時間32分の盲点  エピローグ  プロローグ  稲垣庸三が玄関の鍵を開けて入ると、待っていたように、電話のベルが鳴った。  米子発、午前九時三十分の飛行機で羽田に着き、三鷹の自宅へ帰ったところである。  妻はテニス・スクールへ行く日なので、留守だった。  稲垣はボストンバッグを玄関に置き、居間へ入って、受話器を取った。  電話は佐江田緑だった。緑は、相手が稲垣と分かるや、いきなり、君島社長が死んだのを知っているかと訊いた。そして、稲垣が知らないと答えると、 「昨夜、自殺したそうですわ」  冷たい声で言い、さらに宣言するようにつづけた。「でも、私は諦めませんからね。私一人になったって、先生の責任を最後まで追及しますわ。少なくとも、先生を社会的に葬るまでは。そうでないと、亡くなった息子が浮かばれませんもの。このことを言っておきたくて、お電話したんです」  稲垣が緑から初めて電話を受けたのは、一ヵ月半ほど前だった。  九月に入って最初の月曜日の夜、十一時過ぎである。  妻が受話器を取り、名を尋ねたが、答えなかったらしい。 「どういう用事か分からないけど、女の方があなたを呼んで欲しいって言ってるわ」  彼女は、風呂から上がったばかりの稲垣にちょっと怪しむような、探るような目を向けて、そう伝えた。  稲垣は誰か見当がつかないまま、電話に出た。  すると、女は、まるで事務的な用件を告げるような調子で、 「先月末に息子が亡くなりました」  と、言った。 「そ、それはどうも」  稲垣は面食らいながらも、応じた。  相手がどこの誰か分からなかったが、当然自分の知っている者なのだろう、と思ったのだ。  が、いまに名乗るだろうと思って待つが、女は何も言わない。 「失礼ですが、どなたでしょうか?」  相手こそ失礼だと思ったが仕方がない、稲垣は訊いた。 「佐江田と申します」 「佐江田さん?」 「先生は知りません。ですが、いずれ近いうちにお目にかかるつもりです」 「いったいどういう……?」 「息子は先生のせいで死んだんです。ですから、息子を返して欲しいんです」  女の声に怒りの感情が籠り、わずかに音程が高くなった。 「僕のせいで息子さんが亡くなった?」  稲垣は、最近自分の診た何人かの患者を素早く思い浮かべた。彼は、慶明大学医学部の内科学の教授だったからだ。  しかし、患者のなかに佐江田という姓の男はいなかったような気がした。  それに、自分のミスから患者を死なせたといった記憶もない。 「きみ、どういう意味なんだね?」  彼は語調を変えた。  どういう関わりの人間か分からないので、慎重に応対したが、無礼な態度に初めから腹が立っていたのだ。 「思い当たりませんか?」 「当たらん。きみは、僕に因縁をつけるつもりなのか?」 「因縁なんて、とんでもありません」 「じゃ、僕がどこでどうやって、きみの息子さんを死なせたのか、説明したまえ」 「もちろん、いずれご説明しますわ。ですが、その前に、先生ご自身でよく考えてみてください」 「ぼ、僕にはそんな覚えは……」  稲垣はさらに声を荒らげて否定しようとした。  が、彼が最後まで言い終わるより前に、相手は電話を切ってしまった。  彼は怒りのやり場がなく、舌打ちして、受話器を乱暴に置いた。そのまま少し考えたが、まったく心当たりはない。  といって、怒りが鎮まり、落ちついてくると、気になった。  翌日、大学へ出ると、秘書を付属病院の事務へ行かせ、カルテを調べさせた。  やはり、「佐江田」といった姓の患者はいなかった。  声の感じから判断したところ、佐江田という女はまだ若く、たとえ息子がいたとしても小児科ではないか、という気もした。  そこで、彼は、誰かの嫌がらせだろうと思い、いつしか電話の件など忘れていた。  ところが、それから二週間ほどした頃、彼が教授会から戻ると、 「佐江田緑さんという方が、先生にお目にかかりたいと見えておられますが」  と、秘書が告げたのだった。  その後、稲垣は、緑と二度会い、電話でも二、三度話した。  そして、今日の電話であった。  緑は言うだけ言うと、電話を切った。  稲垣は、受話器を戻し、しばらくその場に立っていた。  緑の声は、いつまでも彼の頭のなかから消えなかった。  ——私は諦めませんからね。一人になったって、どんなことをしたって、あくまで先生の責任を追及しますわ。少なくとも、先生の社会的生命を葬るまでは。  第一章 山陰・『怪談』への旅     1 「あなたと一緒じゃなくて、残念だわ」  笹谷美緒《ささたにみお》は、壮《そう》と腕を組んでホームへの階段を上りながら、言った。  見送りに来た壮と、構内のレストランで夕食を済ませたところである。  ここ東京駅の八重洲中央口で待ち合わせてから、何度も繰り返している言葉だった。  我ながらくどいと思うが、壮以外の男と寝台車の上下のベッドに揺られて行くのかと思うと、つい言葉が口を衝《つ》いて出てしまう。  ホームへ上がると、出雲市行き寝台特急「出雲3号」のブルーの車体が、すでに入線していた。  時刻は九時五分。  発車まで、あと十五分だ。  ホームには、年老いた母親らしい女性を見送る青年、夫を見送る妻と幼児……そんな人々の別れの光景が見られた。片手に革のバッグ、片手に弁当やビールの入ったビニール袋を下げて乗り込むスーツ姿の男たちは、旅馴れたビジネスマンだろうか。  今日は十一月八日(火曜日)。十日の夜には東京へ帰って来るたった二泊三日(正味は二日間)の旅なのに、美緒の胸には、なんだか長い別れのような、妙なもの哀しさがあった。  たぶん、これは夜行列車のせいだろう。  朝の新幹線だったら、こんな感じはしないだろうし、外国へ行く飛行機だって、もっとあっさりと別れられるかもしれない。 「あーあ、本当にあなたとなら良かったのにな」  もうよそう、と思っていたのに、美緒はまた溜め息まじりの言葉を洩らした。  壮が横で困ったような顔をしている。 「ごめんなさい」  美緒は謝った。 「いえ、いいですけど……いずれ、一緒に松江や出雲へ行きましょう」 「えっ、ほんと!」  美緒は、自分の心の内がパッと明るくなるのを感じた。 「え、ええ……」 「でも、今夜じゃないものね」  美緒は、すぐに現実に戻って、足下に目をおとした。  今夜はあと十数分で、壮と別れなければならないのだ。  美緒は、神田神保町にある中堅出版社「清新社」の文芸部員である。そして、壮は、彼女の恋人だった。  壮こと黒江壮《くろえつよし》。職業は、水道橋駅に近いところにある慶明大学の数学科教授をしている美緒の父、精一の助手である。  数学者の娘なのに、かつて算数、数学と聞いただけで蕁麻疹の出た美緒に言わせると、数学などという「陰気」な仕事にはマッチしない、現代的なマスクをした美男子だ。背もすらりとしている。  ただし、現代風なところは顔と姿だけ。暗いというのではないが、性格はおよそいま流行《はや》りの軽薄短小とは逆である。少し喋らないでいると、腹がふくれて苦しくなってしまう美緒とは対照的に、無口で、真剣に考え始めると、誰がいようが、どこにいようが、何も見えず聞こえずの「考える人」になってしまう特技というか、奇癖というか、の持ち主。  年齢は、美緒より四つ上の二十八歳。双方の親も認めた婚約者だ。ところが、この�宇宙人�ときたらまるで世事にうとく、地球人の美緒たちにはチンプンカンプンの�暗号�と殺人事件の謎を解くとき以外はあまりにも不器用すぎて、いまだ二人の関係はキスの段階にとどまっている。  というわけで、この恋人といると、美緒は時々いらいらする。たとえ腕を組んで夜道を歩いていても、彼の場合、 〈柔肌の熱き血潮に触れながら 寂しからずや暗号を解く君〉  だからだ。  が、一方、そんな壮に、美緒は持ちまえの母性本能、世話焼き的性格を、くすぐられないわけではない。  それで、惚れてしまったのが百年目と諦め、口の悪い友人たちからは金魚のなんとかのようだ、などとひやかされながらも、いつもくっついて歩いている。  ところが、今夜は間もなく、美緒は列車に、壮はホームに、と離ればなれにならなければならないのだった。  美緒は、これから山陰を周ってくるのである。  富山《とみやま》幹平という推理作家のお供だ。  富山が清新社から書き下ろし出版する『「怪談」殺人事件』の取材である。  富山は小田原に住んでいるので、列車には熱海で乗って来る。 『怪談』は、松江にゆかりの深いラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、日本の古い怪談・奇談を元にして書いた作品集だ。  読んでいなくても、「耳なし芳一の話」「雪女」「むじな」「ロクロ首」といった話は、聞いたことのある人が多いだろう。  ただ、富山の小説は、題名に「怪談」と入れたからといって、ハーンの書いた怪談に特に関連しているわけではない。ハーンという人間に関する謎に現在の殺人事件を絡め、ハーンの住んでいた松江、彼の歩いた境港《さかいみなと》、出雲大社、日《ひの》御碕《みさき》などを舞台にした一種のトラベルミステリーを狙っている。  今度の旅の一番の目的地は、なんといっても八雲記念館やハーンの旧居のある松江である。が、明九日はまず鳥取で降りて砂丘を見学、それから出雲市まで行って、大社、日御碕と巡り、玉造《たまつくり》温泉に泊まる。そして、十日は午前中いっぱいかけて松江を取材し、米子から境港、美保神社と駈け足で周り、夕方六時五分に米子空港を飛び立つ飛行機で東京へ帰ってくる予定になっている。 「美緒さん、もう乗ったほうがいいです」  壮が時計を見て言った。  九時十二分だった。 「ベッドは八番——と分かっているんだから、大丈夫よ」  美緒は答える。 「A寝台は二号車だけでしたね」 「ええ」  寝台特急「出雲」は、日に二往復走っている。  1号と3号が下りで、2号と4号が上りである。  そのうち、1号と4号は東京・浜田間を走り、食堂車とA個室寝台車が一両付いている。  が、東京・出雲市間を走る3号と2号には、食堂車も個室寝台車もなく、A寝台車が一両と、あとはB寝台車だけだった。  発車の五分前になったので、美緒は列車に乗り込んだ。  壮も一緒に乗り、荷物を車両のなかほどにある席まで運んでくれた。  そして、二人でデッキへ戻ろうとしたときだ。  前から歩いてくるボストンバッグを手にした男の顔を見て、 「あら!」  美緒は思わず声を上げて足を止めた。  すると、相手も美緒たちを認め、驚いた顔をして立ち止まった。  父・精一と交際のある、慶明大学医学部教授の稲垣庸三だった。     2 「今晩は」  美緒は挨拶し、壮も黙って頭を下げた。  美緒は高校生の頃から知っているし、壮も精一と一緒のとき学内で何度か会い、昼食を共にしたことがあるようだ。 「やあ……」  稲垣が笑みを浮かべて寄ってきた。  が、その顔からは、かすかに狼狽に似た表情が読みとれた。  会いたくない場所で知人に見られてしまった、そんな感じである。 「先生も、この列車で?」  美緒は訊いた。 「うん。きみたちも山陰のほうへ行くのかね?」 「私だけですけど」 「そう」  稲垣が答え、ちらっと美緒の後ろに立った壮に目をやった。  身長百七十三、四センチのがっしりした体躯の男である。年は、精一より七、八歳若い四十五、六歳か。学費をすべてアルバイトで稼ぎながら国立大学の医学部を卒業し、三十代で慶明大学の教授になった優秀な人だ、と美緒は精一から聞いていた。  家が三鷹で、美緒の住んでいる西荻窪から近い。そのため、二、三度精一が連れて来たことはあるものの、特に親しい間柄というわけではないらしい。ともに助教授時代に入試委員をやったのが縁で、多少個人的な交際が始まったようだ。 「先生はどちらまで?」 「松江だが、美緒さんは?」 「松江へも行きますけど、明日の朝は鳥取で降ります。熱海で乗ってこられる小説家の先生のお供なんです」 「そりゃ大変だね」 「先生も、お仕事ですか?」 「うん、いや、ま、ちょっとした用事で人に会うためにね」 「すみません、僕は失礼します」  美緒と稲垣の話がまだつづくと見たのか、壮が言った。 「あ、そうね、列車が出ちゃったら大変だったわ」  美緒は笑いながら時計に目をやった。  もう一、二分で発車だった。 「じゃ、僕も席を探すから」  稲垣が言い、美緒と壮の空けた通路を奥へ入って行った。  美緒たちは乗車口へ向かい、壮が降りると間もなくドアが閉まった。  美緒はデッキに立ち、手を振った。  列車が動き出した。  壮が列車の動きに合わせて少し歩いてきたが、すぐに見えなくなった。  美緒は感傷的になった。  涙がひとりでに滲んできた。  が、洟《はな》をすすって顔を上げ、 〈仕事なんだから、頑張らなきゃ〉  と、自分に言いきかせた。  壮が一緒だとつい甘えてしまうが、一人のときは女性編集者として自立しているつもりである。  美緒はドアを開け、車内へ入った。 〈明日の晩、玉造温泉に一泊すれば、次の夜には東京へ帰れるんだわ〉  そう思いながら自分の席へ戻ると、一つ間を置いた斜め奥の三番ベッドから、稲垣が立ち上がった。 「ここだったよ」 「下段ですの?」 「そう。じゃ、僕はもう寝《やす》むから、明日また……」  稲垣が言い、ベッドに上がって、カーテンを引いた。  美緒に話しかけられるのを避けているような印象があった。  そこで、美緒も上段のベッドに上り、バッグの中を整理した。  A寝台は上下で二十八のベッドがある。  つまり、中央の通路を挟んで、通路と平行に十四のボックスが並んでいる。  二号車以外のB寝台の場合、通路の片側に、通路と直角にベッドが上下三十二(または三十四)並んでいるので、それに比べると、だいぶゆったりとしていた。  美緒がざっと見たところ、二十八のベッドのうち、始発の東京駅で埋まったのは、半数ぐらいだろうか。  発車が九時二十分と遅いため、乗った人たちはすぐにカーテンを引き、備え付けの浴衣に着替えてトイレや洗面所へ行く者が多かった。  しかし、美緒は、十時三十九分に熱海で富山が乗ってくるまで、パジャマ代わりに持って来たトレーナーに着替えるわけにゆかない。  通路を挟んだ前のベッドの上段は無人だったが、車掌が検札に来てしまうと、カーテンを引き、持ってきたハーンの選集を開いた。  読みかけの『知られざる日本の面影』のページである。  ハーンというと、『怪談』ばかりが有名だが、彼が島根県尋常中学校の英語教師として松江に住んでいた頃の生活を知るには、来日第一作である『知られざる日本の面影』を読まなければならない。  そこには、東京から松江へ赴任する途中で見た鳥取県|下市《しもいち》の盆踊りから始まり、美保関《みほのせき》、出雲大社(杵築)、日御碕、八重垣神社、隠岐などを訪ねたときの模様が記され、松江については繰り返し触れられていた。 〈神国の首都——松江〉という章では、宍道《しんじ》湖《こ》の夕日の美しさを素晴らしい文章で描き、一躍有名にしたし、同じ章にはすでに怪談も収められている。  美緒は、「耳なし芳一の話」や「雪女」も好きだったが、この〈神国の……〉の中にある「水飴《みずあめ》を買う女」というのが一番好きだった。  それは、松江市内にある大雄寺という寺の墓地にまつわる次のような話だった。  ——大雄寺のある中原町には飴屋があり、水飴を売っていた。水飴は琥珀色をした糖液で、乳の出ない母親が子供に飲ませるものである。その飴屋へ、毎晩、夜が更けてから、全身を白い布に包んだ青白い顔の女が、一厘だけ、水飴を買いに来た。  飴屋は、その女のあまりにもひどい痩せようと青白さを不思議に思い、いつも親切に訊いてみたが、女は何も答えなかった。  ある晩、飴屋は好奇心にかられて女のあとを尾《つ》けてみたところ、女が墓地へ入って行ったので、恐くなり引き返した。  翌晩も女は来たものの、水飴を買わず、ただついて来いと手招きしたので、飴屋は数人の者と連れだってあとを尾け、墓地まで行った。  女は、ある墓のところで消えてしまった。  飴屋たちは墓をあばいてみた。  すると、そこにはいつも水飴を買いに来ていた女の死骸があり、傍らに生きている赤ん坊がいて、提灯《ちようちん》の灯を見て笑っている。そして、そばには、小さな水飴の碗が置いてあった。  これは、母親がまだ死んでいないうちに葬られ、墓のなかで子供が生まれた。そこで、毎晩、母親の幽霊が水飴を買ってきては、子供を育てていたのである。というのは、愛は死よりも強いから。——  美緒は、この「愛は死よりも強いから」というラストが好きだった。男色で有名なイギリスの作家、オスカー・ワイルドの書いたもののなかに同様の表現があるらしいが、それでも、この幽霊の話と結び付けたところは、ハーンの独創であろう。  ハーンについてのドラマは、以前NHKで放映された。「日本の面影」といったような題だった気がするが、正確には覚えていない。だが、俳優や内容はよく覚えている。ハーンはジョージ・チャキリス、妻の小泉セツは檀ふみ、親友の西田千太郎は小林薫であった。四夜か五夜かけて放映されたのを、美緒は再放送と合わせて二度見たが、飽きなかった。脚本が山田太一なので、さすが……と思った覚えがある。  そのドラマの記憶があったので、美緒は、富山が『「怪談」殺人事件』のだいたいの構想を話したとき、  ——面白そうですわ。  と、飛び付いたのだった。  美緒が『知られざる日本の面影』を開きながら、テレビドラマのいくつかのシーンと重ねていると、列車は熱海に着いた。  美緒は、カーテンを開けて下へ降り、富山を迎えた。  熱海では、富山の他に二号車だけで三人乗ってきた。 「ご苦労さまです」  美緒が小声で言うと、 「いや、笹谷君こそ、ご苦労だね」  と、富山が笑みを浮かべて答えた。  髪の毛がだいぶ白い、五十を一つ二つ過ぎた中堅作家だった。 「券は僕が下段になっているけど、上でもいいよ」 「いえ、もう荷物をひろげてしまいましたから」  美緒は言った。  少しでも使ったベッドを、男の人に渡すわけにゆかない。 「そう。じゃ、話は明日の朝にして……」 「はい」  美緒はそこで洗面所に行き、今度は寝るためにベッドへ上った。  小声であっても、いつまでも話していては迷惑をかけるからだ。  美緒はそれから横になって一時間ほど本を読み、列車が静岡を出たところで、明かりを消した。  レールの響きと揺れに、なかなか寝つかれなかったが、いつの間にか眠りのなかへ誘い込まれてゆき、ふと目を覚ますと、列車が停まっていた。  小窓の覆いを開けて外を見た。  ——京都。  日が変わり九日。時刻は、午前三時四十五分だった。  美緒はふたたび眠り、列車が城崎《きのさき》を過ぎた六時半過ぎに今度は完全に目を覚ました。  しかし、富山はまだ鼾《いびき》をかいていたので、そっとベッドから降りた。  顔を洗って乗車口に立ち、時々崖の間から覗《のぞ》く日本海を眺め、余部《あまるべ》鉄橋を渡ったところで、ベッドへ帰った。  富山のベッドも稲垣のベッドも、まだカーテンが引かれたままだった。     3  それから約九時間後、午後四時三十七分——。  美緒と富山の乗ったJR大社線(著者注・一九九〇年四月に廃止になり、現在はバス路線)のディーゼルカーが、出雲市駅の〇番線ホームに着いた。  天候に恵まれ、富山の構想も少しずつ具体的な形を取り始め、いまのところ、まあまあの成果と言えるだろう。  富山は気のおけない人柄で、美緒も旅を楽しんでいた。  朝から鳥取砂丘、出雲大社、日御碕と駆《か》け足で周ってきたが、砂丘の風紋、大社の雄大な本殿、日御碕の東洋一の灯台から眺めた日本海は素晴らしかった。  二人はこれから山陰本線の上り列車に乗り換え、玉造温泉まで行って、泊まる。  玉造温泉は出雲国風土記にも出てくる古い温泉だという。山陰本線の玉造温泉駅は宍道湖の南岸にあったが、温泉街は、そこから十分ほど玉湯川に沿って南へ入ったところらしい。  玉造温泉から松江までは列車で十分、タクシーでも二、三十分の距離なので、明日は朝ホテルから松江へ直行し、午前中いっぱい、松江城や八雲記念館、武家屋敷、宍道湖などを見て過ごす予定だった。  美緒たちは大社線のディーゼルカーから降りた。  〇番線はホームの外れにあるため、数人の人々が慌てて降り、駈けて行く。  美緒たちの乗る列車は四時四十七分の普通列車なので慌てる必要はないが、四十分発の「出雲2号」に乗る人たちだ。  改札口に面した一番線のホームをブルーの長い列車が塞《ふさ》ぎ、発車のベルが鳴っていた。  この「出雲2号」は、昨夜美緒たちの乗ってきた3号と同じ編成で、明日の朝六時三十分に東京へ着く。  寝台列車といっても、出雲市から米子までは立席特急券で乗車できるはずだったが、玉造温泉駅には停車しないので、美緒たちは乗るわけにゆかない。  美緒たちの乗る普通列車は跨線橋を渡った三番線ホームだったが、美緒と富山は東京へ通じている列車を見送るため、中央に寄った階段の上り口まで歩き、寝台車が走り出すのを待った。  そのとき、富山が、改札口から走ってきて乗り込もうとしている男を顎で差し、 「笹谷君、あれは今朝、鳥取で降りるとき、きみが挨拶した慶明大学医学部の何とかという教授じゃないかね?」  と言った。  美緒は、彼の示すほうへ目をやった。  たしかに、東京駅で乗り込んできたときと同じボストンバッグを持った稲垣だった。 「はい、そうみたいです」  美緒が答えるより早く、稲垣の姿は列車の中へ消えた。  二車両ほど離れていたので、彼が美緒たちに気づいた様子はない。 「朝、寝台車で着いて、すぐまた同じ寝台車で帰られるようだね」 「ええ」 「仕事ですか?」 「知った方にお会いする予定とか話しておられましたけど、ちょっとお聞きしただけですから、はっきりとは……」  今朝、稲垣は本当に眠っていたのか、美緒と話したくなかったのか、列車が鳥取に着く直前までカーテンを閉ざしていた。だから、美緒は、降りるとき挨拶しただけなのだった。  稲垣がどういう用事で山陰へ来ようと、美緒たちには関わりのないことである。富山も、特に関心を持って聞いたわけではなさそうだった。たぶん、同じ列車に乗り合わせた人間を同じ日にまた目にしたので、話題にしただけなのだろう。 「そう」  と、富山が気のない様子で答えたとき、列車のドアが閉まった。  ブルーの車両はゆっくりと動き出し、美緒たちの視界から遠ざかって行った。  第二章 出雲・日《ひの》御碕《みさき》の殺人     1  十日(木曜日)午後一時、バスは終点の日御碕に着いた。  降りたのは、的場功・陽子の夫婦をいれて、わずか四人。  片側に山を背負った広い駐車場はがらんとしていて、二、三軒ある土産物店にも、客らしい姿はなかった。  シーズンオフの平日だったし、観光バスやマイカーで来た人たちは、ほとんどこのバス停のあるほうへは曲がらず、観光案内所や国民宿舎などのある灯台近くの駐車場まで行ってしまうかららしい。  的場は姫路に住んでいた。年齢は六十歳。先月、四十年間務めた警察官を辞めたばかり。定年退職を記念して、妻と二人で山陰の温泉巡りに来たのだった。  まず鳥取温泉、次いで米子の皆生《かいけ》温泉、そして昨夜は宍道湖畔の松江温泉に泊まり、今朝、一畑《いちばた》電鉄(宍道湖を挟んでJR山陰本線の反対側——北側——を通っている私鉄)の電車で出雲大社へ来てお参りし、出雲名物の割子ソバを食べてから、日御碕まで足を延ばしたのである。  日御碕は、出雲大社からすぐ西の稲佐浜へ出、断崖の上の道を左手に海を眺めながらバスで二十分ほど走ったところだった。  島根半島の東の先端が美保関なら、西の先端が日御碕。ともに、大山隠岐《だいせんおき》国立公園の一部で、特に日御碕は、旅行者が松江や出雲のタクシーに乗ると、行ってみるべきだとよく運転手に勧められる地である。あんな眺めの良いところは他にない、と言うのだ。  的場たちも、実は大社から出雲市へ行き、三瓶《さんべ》温泉へ向かう予定だったのだが、昨夜ホテルの仲居に、大社まで行って日御碕まで足を延ばさない手はない——と言われ、その通りにしたのだった。  その中年の仲居はなかなか学があり、ハーンの本も何冊か読んでいるようだった。そして、的場たちが八雲記念館や八雲旧居を見て来たと言うと、ハーンも約百年近く前、日御碕へ行ったのだ、と話してくれた。  彼女によると、現在は道が整備され、簡単に行けるが、明治の頃は陸路は大変だったらしく、ハーンは著書のなかに、 〈山の中の道は非常に峻険で骨が折れる〉  と書き、妻のセツと親友の西田千太郎とともに船頭を雇って小舟で行ったのだという。  ——このときが、セツとの事実上の新婚旅行のようなものだったらしいんですよ。それで、セツの遠い親戚にあたる日御碕神社の宮司の家で歓待を受けたらしいんです。  仲居はそう言った。そして、ハーンは、風景よりも何よりもまず日御碕神社の大きさに驚き、やはり著書のなかに、 〈私の驚異は、荒涼たる海岸の僻地の一漁村に、これほど大きく、維持に費用のかかる建物があったということだ〉  そんなふうにも書いている、という話であった。  的場たちは、昨夜仲居から聞いた話を話題にしながら、三、四十メートル歩いて日御碕神社の鳥居をくぐった。  たしかに海辺の閑散とした場所にしては、大きくて立派な建物だった。  同じバスで降りた若い男女はお参りせずに左手の道を海岸のほうへ行ってしまい、境内には誰もいない。  的場たちは、正面の下の宮と、右の石段を登ったところにある上の宮の両方に手を合わせ、これから長い老後を元気で過ごせるようにとお願いして、道路へ降りた。  土産物店が一軒あったが、人影はない。動いているものといえば、犬が一匹いるだけ。  道路はすぐ海に突き当たり、右の山のなかへ細くなった道が登っていた。車も通れるようだが、遊歩道のような感じだ。  休業中らしい民宿の横を過ぎると、坂が終わり、左は松林にかわる。  前にも後ろにも人の気配がなく、ここも、ひっそりとしていた。  松林の三十メートルほど下は漁港で、そのすぐ先に、ウミネコの繁殖地になっている経島《ふみしま》という岩の島が、白い糞の模様を見せていた。  もう一月もすると数千羽のウミネコがやってきて群れ飛ぶらしいが、まだそれらしい姿はないし、鳴き声も聞こえない。 「お天気が良くて、海が綺麗で、仲居さんの言う通りにしてよかったわ」  妻の陽子が言った。  旅に出てから、本当に嬉しそうだ。  的場たちは結婚して三十五年になるが、二人だけで旅行したといった記憶は数えるほどしかない。それも、一泊が精々。新婚旅行には行かなかったし、だから、これが二人にとっては最初の旅らしい旅であった。  しかし、的場のほうは、表面、妻に合わせているものの、心の底から楽しむことはできなかった。  常に、これからの生活が頭に引っかかっていたからだ。  来春、次男が大学を卒業すれば、子供に金がかからなくなる。年金だけで、夫婦二人ならなんとか食べてゆける。が、趣味らしい趣味を持たない彼は、毎日、家にいてもすることがなかった。それで、いま誘われているビルの警備員になる話を受けようかどうか、迷っているのだった。  二人は土産物店の並んだ前を通り、十分ほどで灯台の前に着いた。  高さ四十四メートル。東洋一の灯台だというが、真っ青な空を背景にした白亜の塔は、見事なものだった。的場はこれまでいろいろな場所の灯台を見たが、みなずんぐりしていた。ところが、目の前の灯台は、まさに天に向かって屹立《きつりつ》していた。  上って見学できるというが、階段が狭く大変そうなので、的場たちは塀の外の断崖の上へ回り、目の前に広がる日本海と、入りくんだ左右の海岸線を眺めるだけで我慢した。  やはり、この辺りが観光の中心らしく、人の姿が多くなっていた。  海は青く澄み、水平線までくっきりと見える。風は強く、冷たかった。  大社行きのバスは二時十五分までないが、寒くなったので、的場たちは五分ほど灯台の下にいただけで写真を撮り、引き返した。  来るときは分からなかったが、さっきよりもっと海に寄ったところに道があったらしい。それが本当の遊歩道のようだった。  そこで、的場たちは、〈海岸探勝コース〉の案内板に従って松林の中を降りて行き、海岸に出た。  海は、気の遠くなるような青さだった。  その海をバックに、細い石の柱を何万、何十万本と集め固めたような柱状節理の岩の海岸線がつづいていた。同じ柱状節理でも、紀伊白浜の三段壁と違い、一本一本の柱が非常に細い。三段壁や東尋坊のような豪快な断崖ではないが、キメこまかく、顔を近づけて撫でてみたくなるような美しさだ。  遊歩道はその岩の海岸と松林の間に通じており、振り返ると、松の緑の上にいつも白い灯台が覗いている。  少し行くと、白茶けた岩の上に〈日御碕〉の標識が立ち、四人の大学生らしい男女が交代で写真を撮り合っていた。  的場も、彼らの終わるのを待って妻を標識の横に立たせ、灯台をバックに一枚撮った。  さらに進むと、右側の一段高くなったところに、柵で囲まれた展望台が作られていた。ウミネコを眺めるための場所だろうか、経島がよく見える。どうやら、遊歩道はそこまでで終わりらしい。展望台でまた写真を撮ってから左へ下り、土産物店の間を七、八十メートル行くと、的場たちが往きに通ってきた小道へ出た。 「バスの時間まで、まだだいぶあるわね」  妻が足を止め、時計を見て言った。 「茶店で休んでいれば、いいさ」  的場は答える。 「そうね、ちょっとお土産も見たいし」  二人はふたたび歩きだし、山と松林に挟まれた人気のない小道を神社のほうへ戻り始めた。  そのときだった。  曲がりくねった小道の前方に、若い男の姿が現われ、猛烈な勢いで走ってきた。  さっき、〈日御碕〉の標識のところで写真を撮り合っていた若者たちの一人のようだ。  彼らは観光案内所のある駐車場のほうへ戻ったのかと思っていたが、違ったらしい。  近づいてくる男の顔は青く強張《こわば》り、尋常な様子ではない。  的場は立ち止まった。  どうしたのかしら? と問うように、妻が彼の顔を見上げた。  男は直前まで来ても、的場たちなど眼中に入らないかのようだ。彼らの空けた横を擦り抜けて行くつもりらしい。  それを見て、 「どうしたんだね、何かあったのかね?」  的場は強い調子で声をかけていた。  永年の習性だろうか、自分でも意識しないうちにそうしていたのである。  男はびっくりしたような顔をして足を止めた。ハーハー荒い呼吸をしながら的場を見つめた。 「どうかしたんですか?」  的場は、自分はもう警察官ではなかったのだと思い、丁寧な言葉で訊きなおした。 「人が……女の人が、死んでいるみたいなんです」  男が、少し落ちついたらしい表情になって、答えた。 「人が死んでいる? どこにです?」 「すぐそこの、斜面になった松林の中です」 「周りを荒してないね?」 「え、ええ、急で降りられませんから」 「いや、私は警察官をしていた者なんだが……」  男が不審そうな目をしたので、的場は言い訳し、「とにかく、私も行ってみますから、あなたは警察へ電話してきてください。そのつもりだったんでしょう?」 「はい」  男は元警官と聞き、納得したようにうなずくと、ふたたび駈け出して行った。     2  島根県警刑事部捜査一課の若月が、女の死体が発見された日御碕の現場に着いたのは、三時十分過ぎだった。  上司の溝口警部も一緒である。  発見者である大学生から一一〇番通報が入ったのは、一時三十九分。  日御碕の駐在所巡査につづいて大社町にある出雲北署の刑事が駈けつけ、死体の首に紐で絞められた痕があるのを確認して、報告してきたからだ。  自殺なら、県警本部の刑事がわざわざ出向くことはないが、殺人の疑いが濃厚になったために出動となったのである。  松江から出雲大社までは宍道湖の北側を国道431号線が通っている。距離は三十七、八キロ。普通の車なら一時間かかるが、パトカーでサイレンを鳴らして飛ばしたため、四十分足らずで大社に、さらに十二、三分で日御碕に着いた。  若月は三十七歳。階級は警部補。大阪の大学へ行っていたのだが、父親が病気になったので中退し、松江に帰って警察官になった。  パトカーを神社の前を越した漁港の入口で降り、坂になった右の小道を現場へ向かった。  若月は日御碕へは何度か来ているので、地理は分かっている。  報告によると、死体発見者は大学生四人だが、近くにたまたま兵庫県から旅行に来た退職警官がいたため、死体のあった松林の中はもとより、道端の舗装されていない部分へも人を入れず、現場保存はきちんとなされている、という話だった。  小道は、現場を挟んだ両側で通行止めにしてあった。  近くの住民や観光客らしい野次馬が三十人ほど、ロープの外に立って、刑事や鑑識係員たちのかたまっているほうを見ていた。  若月は、溝口とともに、制服警官の上げたそのロープをくぐり、近づいて行った。 「ご苦労さまです」  と、若月も面識のある出雲北署の上野という刑事課長が挨拶し、道の端から死体を見ていた刑事たちが場所を空けた。  死体は小道から三メートルと松林へ入らない、篠藪《しのやぶ》と枯れた草むらの中にあった。  松林はかなりの急斜面になっていて、下は漁港である。死体は、ちょっと棚のようになったところに横たわっていた。小道の端に寄れば、身に着けている衣類が見えるが、たいていの人は経島を眺めながら通り過ぎてしまうため、大学生たちの前に気づいた者がいなかったらしい。  若月たちは離れたところから松林の中へ入り、下から回るようにして死体に近づいた。  もちろん現場を荒さないためだ。  死体は、警察の嘱託医が視《み》ていた。  三十代から四十代ぐらいの、中肉中背の女であった。  体は斜面にほぼ直角になっていた。  仰向けである。  殺された死体の場合、俯きや横向きが多いのに、珍しかった。  茶色っぽいスーツには特に乱れた様子はないが、髪が顔にふりかかり、腕と脚は無造作に投げ出されている。  頭の禿げた嘱託医が、首筋の髪を払い、索溝を見せてくれた。 「紐は一回し、首の後ろで交叉《こうさ》させて絞められていますな」  医師が言った。「ま、これが死因に間違いないでしょう」 「一回しということは、犯人は被害者の油断をみすまして不意に背後から紐を首に掛け、一気に絞めたんですかね」  溝口が訊いた。 「たぶん、その通りでしょう。索溝の様子から見たところ、犯人は相当強い力の人間のようです」 「すると、男?」 「その可能性が高いですね」 「死亡してから、だいたいどれぐらいですか?」 「一日までは経っていませんが、十七、八時間から二十時間近くは過ぎている感じがしますから、昨夜……それもあまり遅い時刻じゃありませんな」 「二十時間として昨夕七時、十七時間として十時ですか……」  溝口が医師に礼を言って顔を上げ、 「凶器の紐は見つかったの?」  と、道端の上野に質問を向けた。 「見つかりません」  上野が上から答えた。  階級は溝口と同じ警部だが、年は溝口より五歳下の若月と同年ぐらいだろうか。 「身元は?」 「分かりません。身元を示すような物が一切ありませんでした。ハンドバッグの類いを持っていませんし、スーツのポケットにはティッシュペーパーが入っていただけです」 「死体は、初めから今の恰好だったのかね?」 「そうです」 「道の上から捨てられた、といった感じだな。枯草の状態も、ちょうど何かを転がしたように少し押しつけられているし」 「我々も、そう見ていたところです」 「この小道の人通りはどうなんだろう?」 「昼でも、バスを利用する人や神社へ行く人しか通りませんから、非常に少ないですね。ましてや、夜ともなれば、ほとんど通らないと思います」 「それなら、夜でも昼でも簡単に捨てられるか。犯行現場はここでもいいし、どこかで殺して車で運んできてもよかった……」 「ええ。ただ、午前九時から午後五時までは車両通行禁止になっていますから、昼なら、港の入口から百メートルほど担いでこないといけません」 「担いできたとは思えんから、じゃ、やはり夜か」  二人の話を聞きながら、若月も、死体は正確にいつからここにあったのだろう、と考えていた。殺害現場がここなら当然昨夜からだろうが、もし別の場所で殺されたのなら、いつ捨てられたのか分からない。  どこで殺されようと、夜のうちに捨てられた可能性が高い。夜のほうが、犯人にとって安全だからだ。とはいえ、今朝、夜が明けてから午前九時までの間に、運ばれてきて捨てられた可能性もある(九時以後、人に見られないように車を乗り入れて捨てた可能性もありうるが、それはかなり低いとみていいだろう)。  いずれにしても、犯人がなぜこの場所を死体の投棄場所に選んだかは、捜査の重要な手掛かりになりそうだった。  単に犯人に土地鑑があった、というだけではないようだったからだ。  ここは、岬の先端である。車で来れるとはいうものの、大社からの一本道しかなく、交通の便が良いとは言えない。  それでも、すぐには死体が見つからない特別の地形の場所に捨てた、というのなら、分かる。  しかし、実際は、小道の端から見える、何の変哲もない場所なのだ。  これなら、どこか別の道端の草むらに捨てても同じだっただろう。  ところが、犯人はそうせず、ここのこの場所に捨てた。  なぜ、そうしたのか?  二つの場合が一応考えられた。  一つは、犯人は昨日ここ、あるいはこの近くに被害者と一緒に来ていて、彼女を殺した。そこで、別の場所へ死体を運ぶのは面倒だし、まあ人気のないここなら捨てるところを人に見られる危険はない、そう判断した、といった場合である。  この場合、この場所に特別の意味はないが、少なくとも、犯人が昨日の夕方から夜にかけての頃、被害者と一緒にこのあたりにいた、という事実が捜査の手掛かりになるはずであった。  そして、もう一つは、犯人は別の場所で殺したにもかかわらず、日御碕のここまで死体を運んできて捨てれば安全だ、そう判断した、といった場合である。  なぜ、ここなら安全なのか?  この場合、すぐに思いつくのは、アリバイとの関係であろう。  つまり、犯人のアリバイ工作のために、日御碕のこの場所の地理的な条件が必要だった、という場合だ。  犯人がどこに住む人間で、どこから死体を捨てに来たのか分からないが、松江や出雲市の近くに死体を捨てたのでは——たぶん鉄道や飛行場などとの関係で——アリバイが成り立たない。また、死体が昨夜のうちに発見されては危険だが、かといって、いつまでも見つからずにいて、死亡推定時刻がはっきりしないでは、折角のアリバイ工作が無駄になってしまう。こうした事情から、犯人は日御碕のこの場所を、死体の投棄場所に選んだ——。  この場合、被害者の身元が割れ、その周辺にいる人間を洗えば、犯人を特定するのにやはり重要な手掛かりになるはずであった。  若月が自分の考えたことを溝口たちに説明していると、県警本部から鑑識課員たちが到着し、出雲北署の鑑識係員たちに加わって、本格的な現場鑑識が始まった。  足跡や車轍痕の採取は無理だったので、犯人の遺留品捜しが第一である。  枯草の下に、洋服のボタン一つでも落ちていれば、犯人を特定する有力な証拠にならないともかぎらないからだ。  そこで、若月たちは、死体発見者の大学生たちと兵庫県の退職警官から事情を聞くために、ひとまず現場を離れた。     3  大学生たちは、小道をふざけながら歩いていて、偶然、一人が松林の中に妙な物があるのに気づいたのだという。みんなで道の端へ寄り、覗いて見ると、草むらの中へ降りて確かめるまでもなく、人間が死んでいるらしい、と判断がついた。そこで、一人が警察へ電話するために駈け出して行き、途中で的場という元警官に呼び止められたのであった。  この話は、的場の証言と一致した。  事件捜査には、ほとんど参考にならなかったものの、彼らが事件に無関係であるのは確実と見てよかった。  その後、若月は溝口と別れて、付近の土産物店や民宿などの聞き込みに加わり、六時過ぎ、大社町の参道脇にある出雲北署へ引き上げた。  依然、被害者の身元は判明せず、これといった手掛かりは得られなかった。  すでに捜査本部の設置が決まり、日常的な捜査の指揮をとる捜査主任官には溝口が任命されていた。  若月が、刑事の一人から、 「すみません、何か事件に関係して話したいという電話なんですが、責任者にと言っていますので出ていただけませんか」  と言われたのは、七時に予定されている第一回捜査会議の始まるのを待って、茶を飲んでいるときだった。  溝口は、捜査本部長である県警本部刑事部長、副本部長である捜査一課長、出雲北署署長らとともに、署長室で打ち合わせ中だった。  若月はうなずき、手を伸ばして、手近な受話器を取った。  事件は夕方のテレビやラジオのニュースで報道されているので、誰かが情報を寄せてきたのだろう。 〈役に立つ話ならいいが……〉  彼はそう思いながら、 「お電話、代わりました。何か事件に関してお話があるそうですが、どういうことでしょう?」  と言った。  すると、女が、「あの……」と、ためらっているようなビクビクしているような声で応じ、 「間違っていてもいいでしょうか?」  と訊いた。  年齢は、十代という感じではないし、といって四十まではいっていないように思えた。 「結構です、何でもお話しください」  若月は、相手が話し易いよう、できるだけ優しい声で応じた。「どういうお話でしょう?」 「女の人が日御碕で殺されていた、と六時のニュースで見たんですけど、もうどこの方か分かったんでしょうか?」  女は、最初のおどおどした声が嘘だったように、しっかりした話し方になっていた。 「いえ、まだ分かりません」  若月は答えながら、胸にかすかな期待が湧くのを感じた。「お心あたりでもあるんでしょうか?」 「もしかしたら、私の連れではないかと……」 「お連れの方——ということは、どこからかご旅行にでもいらした?」 「東京からまいりました」 「何という方でしょう?」 「佐江田緑さんという三十四歳の人です。中肉中背の、茶色いスーツを着た三十歳から四十歳ぐらいの人だというので、もしかしたらと……」 「服装、背恰好が似ているわけですね」 「はい」  かなり確度の高い情報のようだった。  若月は心の昂《たかぶ》りを感じながら、 「あなたのお名前を、聞かせていただけませんか」 「日下《くさか》峰子と申します」 「今、どこに?」 「松江におります。昨夜は米子の皆生温泉に泊まりました。五時頃、佐江田さんと皆生ビーチホテルにチェックインし、お風呂に入ってから一緒に外へ出て、別れたんです」 「それきり帰らない?」 「はい」 「行き先は?」 「聞いていません。ホテルに男の方からお電話があって……それで、急に用事ができたから、と……。一時間ほどで帰るので先に食事を始めていて、とは言ったんですが。で、私も一緒にお散歩に出て、別れたんです」 「ハンドバッグのような物は、持って出たんでしょうか?」 「ハンドバッグではありませんけど、財布などを入れていた小型のショルダーバッグを持って行きました。大きなスーツケースだけ、お部屋に置いて行ったんです」 「夜になっても帰らないのを、あなたは変に思われなかったんですか?」 「思いましたけど、たぶん電話をかけてきた男の方と会っているのだろう、と思いましたから。  それに、遅くなったら電話をすると言ったのに、九時を過ぎても何の連絡もありませんでしたし、私も一人で待つのが嫌でしたので、そのうちに帰るだろうと思い、外へお酒を飲みに行ってしまったんです」 「ところが、あなたが帰っても、まだ佐江田さんは帰っていなかったわけですね」 「ええ。それで、気になり、朝までほとんど眠れませんでした。でも、どこといって連絡のしようがありませんし、今晩泊まる予定になっている松江温泉のTホテルへスーツケースを持って行っておけば、そちらに連絡がくるかもしれない……そう思い、朝、タクシーでTホテルまで自分と佐江田さんの荷物を運んだんです」 「では、その後、ずっとTホテルに?」 「いえ、出雲大社にお参りしたり、松江城を見物したりして、少し前に戻りました。で、佐江田さんからまだ連絡がないとホテルの人に聞き、テレビを見ていると、ニュースが始まったんです」 「昨日の夕方、皆生ビーチホテルに電話してきた男について、心あたりはありますか?」 「ありません」 「全然?」 「はい」 「山陰に、佐江田さんは知った方がいたんでしょうか?」 「聞いていませんけど……たぶん、いなかったと思います」 「日下さんは、佐江田さんとは友達ですか?」 「友達というのとはちょっと違います。一口では説明しにくいんです」 「分かりました。とにかく、日御碕で殺された方が佐江田さんかどうか、まず確認しなければなりませんので、あなたはTホテルにいらしてください。すぐまいりますから」  若月は言って、受話器を置き、立ち上がった。  下の署長室へ行き、幹部たちに事情を説明し、 「これから松江へ行かせてくれませんか」  と、頼んだ。 「うむ。じゃ、すぐ行ってくれ」  刑事部長が言った。  被害者の遺体は、松江にあるS医大の法医学教室へ運ばれ、すでに解剖が行なわれているはずであった。だから、日下峰子をS医大へ連れて行って遺体を見せ、佐江田緑と判明したら、峰子から詳しい事情を聞いてくるのである。  若月は溝口とともに一旦捜査本部の部屋へ戻り、今日一緒に聞き込みをした所轄署の若い刑事、小笠原を伴って庭へ降りた。  屋根に回転灯を乗せて待っていたダークブルーの警察車に乗り込み、サイレンを響かせて松江へ向かった。     4  Tホテルは、前に宍道湖、左手に宍道湖大橋や松江大橋を望むところに建っていた。  松江では屈指のホテルである。  若月たちがホテルの玄関に着いたのは、七時三十九分。  道路より数段高くなったロビーへ入り、フロントで峰子の名を言って呼んでもらうと、彼女はすぐに部屋から降りてきた。  目鼻だちの整った、すらりとした体形の美人だった。  年齢は二十七、八歳だろうか。  特に派手な服装や化粧をしているわけではないが、どことなく家庭の主婦、あるいはOLといった感じではない。  S医大へ向かう車の中で若月が職業を訊くと、赤坂のクラブに勤めているという。  医大にはホテルから十二、三分で着いた。  解剖はほんの十分ほど前に終わったところだという話だった。  若月は、解剖結果を聞く前に、峰子を地下の死体安置所へ連れて行った。  峰子は青い顔をして、部屋へ入るとき尻ごみしたが、若月が促すと観念したように従い、 「さ、佐江田さんです」  一目見るや、顔をそむけて言った。  その様子に、若月は不審を覚えた。  緑との関係は一口に説明できないと言っていたが、少なくとも親しい知人のとる態度ではなかったからだ。  それに、見るか見ないかのうちに、佐江田緑だと言い切ったのも、おかしいと言えば、おかしかった。ひょっとして、峰子は緑の死を知っていたのではないか、そんな感じさえした。 「もう一度、よく見てくれませんか」  彼は言い、峰子の様子を、注意深く見まもっていた。  すると、今度は、前よりは多少時間をかけて死者の顔を覗き、 「間違いありません。佐江田さんです」  と、完全に血の気の失せた顔を若月に向けて、答えた。  それから、焼香し、若月が促すまで、じっと首《こうべ》を垂れて目をつぶり、死者に向かって手を合わせつづけた。  それは、緑の死を悼《いた》み、冥福を祈っているようにも映ったし、死者に対して謝罪すると同時に、死者の霊が自分に危害を及ぼさないよう頼んでいるようにも見えなくなかった。  若月は、小笠原と峰子を先に車へやり、自分は本部の溝口に電話をかけ、被害者が東京都渋谷区笹塚のマンション「シティハウス笹塚」に住む佐江田緑(三十四歳)と確認された事実を報告した。  峰子はマンション名は知っていても、正確な住所は知らないというので、あとはTホテルへ行き、緑の持ち物を調べ、さらに詳しく峰子の話を聞いてから連絡することにしたのである。 「四年前に離婚し、ずっと一人息子と暮らしていたらしいんですが、この八月に、五歳になるその子供が死亡し、以後は一人で同じマンションに住んでいたんだそうです。今度、山陰へ来たのは、何やらその子供の死に関係しているようなんですが……」  彼が説明すると、 「子供の死に関係? いったい、どういう事情かね?」  溝口が遮って、訊いた。 「複雑な事情があるらしく、日下峰子が簡単には説明できないと言っているので、これから聞くつもりでいます」 「そうか。だが、子供の死に関係して山陰へ来て、本人が殺されたとなると、子供の死というのも訳ありのようだな」 「峰子は、病死だとは言っているんですが」 「病死?」 「とにかく、詳しい事情が分かり次第、お知らせします。今は遺体の確認をしただけですので」 「分かった、すまん。それじゃ、こちらは警視庁に捜査の協力を要請し、佐江田緑について調べてもらうことにしよう。緑の持ち物の検査は、鑑識をホテルへ行かせるよ」  若月は「お願いします」と言って受話器を置き、解剖医に挨拶するために、彼の部屋へ行った。  解剖医は、報告文書を書いていた。  助教授だが、五十を過ぎた髪の薄い男で、話好きな性格だった。  彼は待っていたように立ってきて、応接セットの椅子を勧めたが、若月のほうは今は一刻も早く峰子の話を聞きたかった。  そこで、急いでいるからと詫び、死者の身元が判明した旨を報告し、死因と死亡推定時刻を聞いただけで、部屋を出た。  死因は、嘱託医の観察通り、紐で首を絞められたことによる窒息。  死亡推定時刻は、昨夜七時前後、幅を取って〈六時から八時までの間〉という話であった。 第三章 米子・皆生《かいけ》温泉の交叉     1  若月たちがTホテルへ着くのに前後し、県警本部から三人の鑑識課員が来た。  佐江田緑の荷物は一つだった。  かなり大きな白いスーツケースである。  他にショルダーバッグを持ってきたらしいが、それは昨夜緑が持って出た、という峰子の話だったからだ。  峰子は、中身には一切触れていない、という。  若月と小笠原は、鑑識課員たちと一緒に緑のスーツケースの中を調べ、特にこれといった物が入っていないのを確認してから、ホテルに用意してもらった別室へ移った。  そこで、彼らはようやく、  いつ山陰へ来たのか?  目的は何か?  緑の子供の死に関係しているというが、それはどういう意味か?  緑と峰子の関係は?  といった点について、落ちついて峰子から事情を聞くことができた。  峰子の話は、若月の想像もしなかった内容を持っていた。  それによると——  緑の子供・充也は生まれたときから虚弱体質だったため、それを改善しようと、緑は二年前から、松江にある「友ヘルスアカデミー」という有限会社が製造、販売していた『ヘルス・ワン』といういわゆる健康食品を食べさせつづけた。  食品といっても、見た目は、茶色い「錠剤」である。  緑が充也にそれを与えたのは、新聞の折り込み広告や健康雑誌の広告などに、ヘルス・ワンを食べた人たちの「感謝の手紙」なるものが何度も載り、東京の有名大学の一つ、慶明大学医学部の教授・稲垣庸三の推薦文まで付いていたからだ。  ヘルス・ワンは、山陰の海で採れるある貝から有効成分を抽出し、そこに各種ミネラルを豊富に含む、神代《かみよ》の昔から出雲に伝わる「昇竜石」を溶かした清水を加え、乾燥して食品化したものだという。「感謝の手紙」によれば、虚弱体質、胃腸病、高血圧、肝臓病、腎臓病、糖尿病、神経痛、自律神経失調症、喘息……など、まさに万病に効く、というふれこみであった。  分析の結果、現在は、岩石を砕いて塩酸入りの水に二、三ヵ月間浸して濾過し、そこに、しじみの肉と貝殻の粉末、各種ビタミン剤、デンプンを加えて固形化したものだと分かっている。しかも、そこには、岩石から溶け出した砒素と鉛がかなりの高濃度で混入していた事実が判明している。  しかし、広告を見ただけでは、誰にもそんなことは知りようがない。  緑は「感謝の手紙」に励まされ、稲垣庸三の推薦文を信用し、息子に与えつづけた。  含まれているビタミン剤のせいか、一時それは効いたように思えたが、息子の足が段々|萎《な》えてきているような気がしないでもなかった。  彼女は、「感謝の手紙」に書かれていた、〈一時効かなくなったように見えたときは量を二倍に増やしたところ、ぐんぐん良くなった〉という一文を思い出し、その通りにしてみた。  すると、たしかに充也が元気になったようでもあった。  彼女の頭には、常に、有名な大学医学部の先生が推薦しているのだから……という思いが強くあった。きっと、いまに自分も「感謝の手紙」を書ける日がくるにちがいない、と信じて疑わなかった。  この春頃から充也が腕や脚の関節の痛みを訴え、立って歩くのもままならなくなっても、まだ量が足りないのだろうと思い、初めの三倍、四倍まで増やした。  六月、充也は強い痙攣を起こして倒れたが、医師にも原因が分からず、一過性のものだろうと言うので、緑は充也を連れ帰り、ヘルス・ワンを与えつづけた。充也は、その後も何度かテンカンのような発作を起こした。そこで、緑は別の病院で精密検査を受けさせ、ヘルス・ワンの話をしたところ、すぐにその服用を中止したほうがよい、と言われた。  しかし、そのときはすでに手遅れで、八月の旧盆過ぎ、充也は呼吸麻痺で死亡した。  医師はヘルス・ワンが死亡の原因だと明言はしなかったが、緑はそうに違いない、と考えた。  充也の葬儀が済むと、「友ヘルスアカデミー」の社長・君島友吉と、稲垣庸三に抗議の電話をかけ、押しかけた。  だが、君島はヘルス・ワンで死んだというのなら証拠を示せと言って取り合わず、稲垣はそんな推薦文など知らないと言い張った。  緑は、それなら……と今度はいくつかの新聞社、放送局に投書した。  しかし、マスコミも、充也の死とヘルス・ワンとの因果関係がはっきりしないためか、動かなかった。いや、中央日報の大原関という科学部記者だけが、社会部の友人に聞いたと言って興味を示し、彼女に会いに来た。  緑は、大原関に自分の思いのたけを打ち明け、充也の症状を詳しく説明した。  大原関はそれから、充也が死んだ病院を訪ね、主治医から話を聞いた。  医師は関わりになるのを嫌ったのか、緑にした説明よりさらに後退し、「ヘルス・ワンとの関係は何とも言えない」と述べたらしかった。  それでも、大原関は、もし充也がヘルス・ワンを服用したために死亡したのだとしたら、ヘルス・ワンの成分を調べれば、有毒物質が検出されるにちがいない、また、充也の他にも、ヘルス・ワンを食べて彼と似たような症状を示している者がいるだろう、と考えた。  これが、約一ヵ月半前である。  大原関は知り合いの研究者にヘルス・ワンの分析を依頼すると同時に、友人である社会部のデスクを説得し、緑に聞いた話を小さな記事にさせた。  もちろん、突つかれても困らないように、ヘルス・ワンという商品名は伏せ、「健康食品と言われているある錠剤を長期間食べ、こうした症状になった人がいる」と書いたのである。  反響は、すぐにあった。  その健康食品の名は何か——という問い合わせ電話が、記事の載った日だけでも、十二件あったのだ。  新聞社としては、ヘルス・ワンの名を教えるわけにはゆかない。  その代わり、大原関が、東京近辺に住む七人を訪ね、事情を聞いた。  すると、七人中六人までが、ヘルス・ワンを半年から一年以上食べているが、同じような症状があるので心配になり電話した、と答えたのだった。  数日後、ヘルス・ワンの成分分析の結果も出た。  中央日報は、今度はヘルス・ワンの名を出して、社会面にかなり大きな記事を載せ、その横に、  ——私はヘルス・ワンという食品も、友ヘルスアカデミーという会社も、君島という人も、まったく知らなかった。もちろん、推薦文を書いた覚えもない。被害者だという方が訪ねてきて、広告の話を聞いたときは寝耳に水で、本当にびっくりし、すぐに友ヘルスアカデミーに対し抗議の電話をかけた。自分の名を勝手につかわれ、迷惑している。  という稲垣庸三の談話と、  ——ヘルス・ワンは当社が自信を持って売り出している健康食品であり、多くの感謝の手紙を全国からいただいている。稲垣先生は、推薦文を書いた覚えがないと言われているらしいが、それを聞き、私は驚いている。どうしてそういう嘘をつかれるのか、理解に苦しむ。先生の推薦文をいただいた経緯については、必要なら、いずれ明らかにしたい。  という君島友吉の談話を、並べた。  反響はさらに大きかった。  ヘルス・ワンを食べていて、同じような症状になったという者あるいはその家族が、百人近く名乗り出てきたのである。そのうち、佐江田充也を入れて死者は三人。友ヘルスアカデミーなる会社は島根県の松江市にあるのに、販売されていたのはなぜか東海地方以東のため、電話してきた者はその地域に集中していた(知人、親戚から送られて食べていたという関西や九州の人も少数いたが)。  警察庁も、薬事法違反の容疑が濃厚だとして動き出し、緑が大原関の協力を得て、「ヘルス・ワン被害者の会」を結成した。  君島友吉と稲垣庸三の責任を追及し、裁判を起こそうというのである。  峰子が緑と知り合ったのは、この「被害者の会」結成の集まりにおいてだった。  峰子もヘルス・ワンの広告を見て、郷里の秋田で寝たきりの生活をしている父親の体に良いと思い、一年半ほど前から買って送りつづけた。が、一向に父親は良くならず、今年に入ってから体のあちこちが痛いと言いだし、五月に死んだ。  死因は腎不全だったが、峰子もヘルス・ワンのために命を縮めたにちがいないと考え、会の結成に参加したのだった。  ところが、入会者三十七名により会が結成され、さていよいよ具体的に動き出そうとしていた矢先——先月二十六日の朝——君島友吉が日本海と中海《なかのうみ》を結ぶ境水道で死体になって見つかったのである。  場所は、鳥取県の境港市。島根半島との間を往復している渡船乗り場と、隠岐航路のフェリー発着所に挟まれた、全長三、四百メートルある県営境港魚市場の一角。現在は境水道大橋のたもとに新しい市場が造られ、カニやイカなど主な魚貝類はそちらに水揚げされているため、いつも閑散としているところである。死んだのは前夜の八時から十二時ぐらいまでの間と見られたが、岸に繋留されていた漁船に引っかかっていたため、流されなかったらしい。  死因は心臓麻痺だが、大量の水を飲んでいたので、川の中でもがいているうちに冷たい水でショック死したもの、と判断された。  境港中央警察署は、自殺、事故、他殺のいずれの可能性もあると見て、調べたようだが、松江に住んでいる君島が親類も友人もいない境港まで行って事故に遭ったという可能性は薄いため、まずそのセンが除外された。  となると、自殺か他殺だが、君島がヘルス・ワンの件で世間の批判を浴び、警察から何度も呼び出されて参っていた、という家族の証言、彼の車が魚市場近くの道路に駐められていた点、体に不審な外傷がなかった点、アルコールや薬物を摂取した形跡がない点などから、警察は自殺と断定した。  ヘルス・ワンの被害者に突き落とされたのではないか、という見方もあったらしいが、被害者に誘われて境港まで行ったという説明には無理があったのである。——  以上が、峰子による、峰子と緑が山陰へ来た目的に関係する背景の説明であった。  若月は、松江に住んでいながら、友ヘルスアカデミーという会社の名を聞いたことがなかったし、君島友吉の死についても知らなかった。  ヘルス・ワンの販売されていたのが東海地方より東の地域だったため、地元ではあまり問題にされなかったらしい。  また、君島の死を扱ったのが島根県警ではなく、鳥取県警の境港中央署だったという事情もあっただろう。  他県の警察が自殺と判断した一人の男の死に、いくら刑事でも注意をとめる確率は低い。  若月がそうした感想を述べると、 「刑事さんが友ヘルスアカデミーについて知らなくても、当然だと思います」  と、峰子が言った。 「当然?」 「もう閉鎖されていましたけど、空地に小さなプレハブが一戸建っているだけの小さな会社でしたから。場所は松江駅の南、『八雲立つ風土記の丘』のほうへ十五分ほどバスで行った畑の中です。従業員も、社長の君島という人の他には、パートの女子事務員と六十過ぎの男の人が二人働いていただけだったそうです。近所の人さえ、何を作っているのか知らなかったらしいんです。それで、きっと、会社を見られる危険の少ない関西より向こうでヘルス・ワンを売っていたんじゃないでしょうか」 「なるほど、友ヘルスアカデミーなどと、もっともらしい名をつけ、綺麗な広告を出せば、知らない人間はまさかインチキ会社だとは思わない、というわけですね? しかも、慶明大学医学部教授の推薦文まで付いていた」 「ええ。それで、私だって、佐江田さんだって信用したんです」 「ところで、日下さんは、いつ会社を見に行かれたんですか?」 「今日の午後です。佐江田さんは前に一度来たことがあり、お話は聞いていましたけど。実は、今日、佐江田さんと二人で訪ね、君島社長の奥さんと交渉するはずだったんです。それが、私たちの山陰へ来た目的だったんです」  峰子と緑の関係、二人がなぜ山陰へ来たのか、はこれで分かった。  そこで、若月がさらに具体的な質問に移ろうとしたとき、部屋の隅の小テーブルに置かれた電話が鳴った。  小笠原が立って行って受話器を取り、溝口からだと若月に告げた。  若月は小笠原と交替した。 「どうかね、そちらは?」  溝口が訊き、若月が峰子から話を聞いているところだと答えると、 「実は、今、東京で佐江田緑が殺されたというニュースを見たという男から電話があった。ヘルス・ワン被害者の会に関係している者だとしか言わないんだが、慶明大学医学部教授の稲垣庸三という男を調べろ、そう言うんだ。犯人はその稲垣という男じゃないか、と。詳しく訊こうとしたら、電話を切ってしまったので、何がなんだか分からんが、ヘルス・ワンとか稲垣という男とか……日下峰子が知っているかどうか、質《ただ》してみてくれ」  溝口の話に、若月は驚いた。  ヘルス・ワンも稲垣も、彼がたったいま聞いたばかりの名だったからだ。  彼はその点を説明したかったが、部屋に峰子がいるので、「分かりました」とだけ答え、受話器を置いた。     2  峰子の前のテーブルに戻り、質問を再開した。  まず、峰子と緑の二人がいつ山陰に来て、その後どこで何をしていたか、である。 「昨日、米子空港へ午後一時に着いた全日空便で来ました」  峰子が答えた。 「それから?」 「タクシーで米子駅まで行き、ホテルへ入るにはまだ早かったので、バスに乗り換え、有名な伯耆《ほうき》富士《ふじ》・大山《だいせん》へ行ってきました。中腹のバスターミナルから大山寺まであんなに離れているとは私も佐江田さんも知らなかったため、忙しいお参りでしたけど、米子駅へ戻ったのは、四時半近くです。  それから、別のバスで皆生温泉へ行き、海岸遊歩道を見おろす『皆生ビーチホテル』に着いたのが、五時頃でした」 「佐江田さんに男の人から電話があったというのは何時頃ですか?」 「二人でゆっくりお風呂に入ってきてからですから、六時頃じゃなかったかと思います」 「電話には、初めから佐江田さんが出た?」 「はい、私かもしれないからって。そして、二、三分話して……といっても、佐江田さんはほとんど聞いていただけでしたけど……それから、悪いけど一時間ほど出て来るから、って」 「佐江田さんは、電話があるかもしれない、と前から言っていたんですか?」 「いえ」 「そして、電話が終わった後、あなたが尋ねても、彼女は、相手の男についても用事についても、何も説明しなかった?」 「はい。あ、いえ、いずれ詳しく話すからとは言いましたけど」 「で、あなたはそれ以上訊かず、彼女と一緒に散歩に出た?」 「そうです」 「それは何時頃でしょう?」 「佐江田さんがお化粧したり着替えたりしましたから、六時半近かったかもしれません」 「夕食は何時に予約してあったんですか?」 「七時でした」 「ホテルを出てからは?」 「佐江田さんはバス停などのある街のほうへ行き、私は海岸の遊歩道へとすぐ別れました」 「それ以後、彼女からは何の連絡もなかった?」 「はい」  緑の死亡推定時刻は昨夕七時前後(六時〜八時)である。としたら、彼女は、峰子と別れてそれほど時を経ずに殺された、ということだった。  これは、犯人と皆生温泉あるいはその近辺で落ち合った事実を示している。  そして、峰子の話が事実なら、十中八九、六時頃ホテルへ電話してきた男が犯人であろう。  若月はそう考えながら、 「ところで、話は少し変わりますが、あなたがさっき話した稲垣庸三という大学教授と佐江田さんとの間には、何か特に強い対立関係といったものがあったんでしょうか?」  と訊いてみた。 「……?」  若月の口から突然稲垣の名が飛び出したからだろう、峰子が驚いたように目を大きく開いて彼を見つめた。 「ちょっと、そういった電話をしてきた者がいるんです」  若月は言った。「いかがでしょう?」 「ええ、まあ……」  峰子が曖昧に肯定した。 「では、佐江田さんは、稲垣という教授が単にヘルス・ワンの推薦文を書いたのを責めていただけではない?」 「いえ、そうなんですけど……」 「詳しく説明してくれませんか」 「佐江田さんは、君島社長よりも誰よりも、稲垣教授を一番恨んでいたんです。それで、何度か大学へ押しかけて行っているんです。稲垣教授の推薦文さえなかったら、どんなに効くと宣伝されても、自分はヘルス・ワンを充也ちゃんに食べさせなかったのにって……」 「ほう」 「それから、被害者の会が結成されて間もなく、君島社長が自殺してしまい、会は腰くだけになってしまいました。いくら裁判をして勝っても、その費用さえ出そうにないからです。今日、君島社長の奥さんに会ったところで、たぶんどうにもならないだろうということは、佐江田さんも予想していたんです。ですから、うまくいったら報告するつもりで、会員たちには黙って交渉に来たんです。  ただ、一人では心細いからと言って、私にだけは相談があったんですけど」 「その山陰へ来た目的と、稲垣教授の件はどう関係しているんでしょう?」 「すみません、説明が悪くて」  峰子が軽く頭を下げ、「ほとんどの会員は、君島社長が死んで消極的になっているのに、佐江田さんだけは一人になっても戦うと言って譲らなかったんです。お金なんか取れなくても、稲垣教授の責任を法廷で明らかにし、彼の社会的生命を葬ってやらなければ、充也ちゃんが浮かばれない、そう言って。そして、その自分の意志を、稲垣教授にもはっきりと伝えていたんです」 「なるほど。となると、稲垣教授には、佐江田さんさえいなくなれば……という気持ちがあったというわけですね」 「そこまでは、私には分かりませんけど」 「では、日下さんはどうだったんでしょう? あなたも佐江田さんと一緒に最後まで責任を追及するつもりだったんですか?」 「わ、わたしですか?」  峰子がどぎまぎした様子で、「私は、佐江田さんと年齢が近く、会の中では一番親しくなったので、できるだけ力になろうと思っていただけです。父がヘルス・ワンを飲んだために命を縮めたと思うと悔しいですけど、君島社長が死んでしまったのでは、どうにもなりませんから。稲垣教授は、推薦文など書いた覚えはないと言っているわけですし」  若月は、君島の自殺にもちょっと胡散臭いものを感じた。  峰子によれば、君島は新聞に、「稲垣が嘘をついている。推薦文をもらった経緯についてはいずれ明らかにしたい」という談話を載せている、という話だったからだ。  境港中央署は、君島の死んだ晩、東京在住の稲垣がどこにいたかまでは調べていそうにない。  だが、もし君島の談話が事実なら、稲垣にとっては、君島は佐江田緑以上に危険な存在だったはずであった。早急に、先月二十五日と昨九日の夜、稲垣がどこにいたかを調べる必要があるな——と、若月は思った。  溝口が受けたタレコミの電話と峰子の話により、稲垣という、緑を殺す動機のある男が浮かんだ。しかし、若月は、峰子の話も百パーセント信用したわけではない。彼女と緑との関係を調べ、彼女の話のウラを取る必要がある、と考えていた。  彼の頭には、峰子が緑の死体を確認したときの多少不自然な反応が残っていた。  それに、動機は分からないが、峰子にだって、殺そうと思えば緑を昨夜六時から八時までの間に殺せたのである。  六時半に緑と一緒に皆生ビーチホテルを出て、人気のないところですぐに殺害し、死体を車のトランクに入れておく。そして、深夜、そっとホテルを抜け出し、日御碕まで運んで捨てる。米子から松江まで五十分、松江から日御碕まで一時間十分とみて、片道二時間。あまり力があるようには見えない峰子でも、車から死体を担ぎ出し、斜面になった松林の中に転がすぐらいはできただろう。その時間を十分とみて、往復と合わせて四時間十分。もし午前零時に皆生ビーチホテルを出たとすれば、まだ夜の明けない四時過ぎにはホテルへ戻れた、という計算だった。  しかし、若月のその計算が成り立たないことは、すぐに判明した。  峰子が緑と別れたと言っている昨夕六時半以後の彼女の行動、所在を訊いたところ、峰子は次のように述べたからだ。  まず、ホテルへ帰った時刻については、  ——七時半頃です。なんだか一人で帰って食事をする気になれず、海岸から街のほうへ回り、土産物店などをちょっと覗いて歩いていたからです。  ——その後は?  ——さっきお電話で話しましたけど、九時過ぎまでお部屋で佐江田さんを待っていました。でも、何の連絡もなく、寝てしまうわけにもゆかず……といって、お部屋に一人でポツンとしているのも嫌でしたので、街へお酒を飲みに行ったんです。  ——ホテルに帰った時刻は何時頃でしょう?  ——四時頃でした。  ——明け方の四時まで!  若月は思わず訊き返した。  ——ええ。お酒を飲んでいたら、自分に全然説明してくれない佐江田さんに段々腹が立ってきたんです。それで、自分より先に帰って心配していたらいいわ、と思って……。  ——その間、同じ店にいたんですか?  ——はい。たしか『漁火』というスナックでした。表の灯は零時過ぎに消したんですけど、やはり近くのホテルに泊まっていた男の方三人とお店のママと、ずっと飲んでいたんです。  ——では、四時にホテルへ帰ってからは?  ——当然、佐江田さんは帰っていると思っていたのに、まだでした。ですから、何だか酔いがいっぺんに醒めてしまった感じで、お布団に入っても、気になって眠れませんでした。  そのうち、急にお腹が痛くなって、しばらく我慢していたんですけど、治らないので、起きてフロントに降り、薬をもらって飲みました。  ——それは何時頃?  ——五時半頃だったと思います。夜間フロントのおじさんがとても親切でしたから、三十分ぐらいお話ししてました。それからお部屋へ帰り、やっと少しウトウトしたと思ったら、朝食の用意ができた、という連絡があったんです。  ——朝食は何時に?  ——予約は七時半でしたけど、連絡の電話があってから起きて、洗面しましたから、広間に行って食べたのは八時頃です。  ——佐江田さんから何の連絡もなく、心配じゃありませんでしたか?  ——心配でしたけど、どうすることもできませんし、まだ腹も立っていましたから。それに、松江のTホテルに泊まる予定は佐江田さんも知ってますので、夕方には会えるだろう、と思っていました。  ——皆生ビーチホテルを出た時刻は?  ——八時半頃です。荷物が多いのでタクシーを呼んでもらい、松江温泉のTホテルまで真っ直ぐ行きました。  Tホテルに着いたのは十時前でしたから、チェックインの時刻には早過ぎましたが、事情をお話しすると、荷物を無料で預ってくれました。  そこで、私は待たせてあったタクシーで出雲大社まで行き、お参りしたんです。大社前に着いたのは十一時頃でした。  峰子はさらに、出雲大社前駅から一畑電鉄で松江へ戻り、松江城や武家屋敷の残っている塩見縄手《しおみなわて》などを見物し、友ヘルスアカデミーのプレハブを見て、五時過ぎにTホテルへ戻ったのだ、と言った。  その後、若月たちは、緑が別れた夫から手にした慰謝料と充也の養育費で生活し、充也が小学校へ入ったら働くつもりで元気になるのを待っていたらしい、といった話を聞き、峰子を放免して、捜査本部へ帰った。     3  同じ十日の夜十時半過ぎ、美緒は東京西荻窪にある自宅へ帰った。  米子空港を夕方六時五分に飛び立つANA(全日空)176便に乗り、羽田に着いたのは七時二十分。早く壮の顔を見たかったのだが、富山に打ち上げをやろうと強く誘われ、仕方なく銀座のバーへ行き、その後で食事をして来たのである。  壮には、研究室に電話して事情を話しておいたので、精一と一緒に彼女の家へ来て待っていた。  玄関へ出て来た彼に、美緒が、 「ただいま」  と言うと、何だか眩しいものを見るようなはにかんだ顔で迎えた。  顔と手を洗ってきてから、居間でロシアティを飲みながら、美緒は土産話をした。  時々、母親の章子が質問を挟む以外は、美緒の一人舞台だった。  家にいるときはたいてい難しい本とにらめっこしている学者バカの父、そんな夫に不満一つ愚痴一つ洩らさず仕える、おっとり屋の母。そうした夫婦から、美緒のようなお喋りな子供がどうして生まれたのか、と小さい頃よく親戚の者たちに不思議がられた。  しかし、不思議がられようと何と言われようと、話したいことをためておくと、苦しくなってしまうのだから、仕方がない。徒然《つれづれ》草《ぐさ》のなかで兼好法師も言っているように、「もの言わぬは腹ふくるるわざなれば……」なのである。  お喋りといっても、長じてからは、もちろん時と場所をわきまえるようになった。いつでも、どこでも、ペラペラやるわけではない。控えるべきときは控える。  だが、今はそんな気兼ねはいらない。美緒がこの世の中で一番愛し、相手も美緒を最も愛してくれている人たちなのだ。彼らに話し、彼らと共有したい事柄は山ほどあった。鳥取砂丘の風紋、列車から眺めた大山の姿、鳥取と島根を隔てる境水道の様子、出雲大社の大きさ、日御碕に立つ灯台の高さ、宍道湖大橋から眺めた湖の眺め、小泉八雲記念館で見たハーンの机の小ささ……と、自分が感動したり興味を覚えたことは、何でも教えてやりたかった。  子供が遠足から帰り、見たこと聞いたことのすべてを母親に報告する(母親にそうしたことを聞いてやる心の余裕がないと、子供は欲求不満になり、おかしくなる)のに似ているかもしれない。  美緒は自分でもそう思いながら、たった二日間だったが、壮と両親に早く話してやりたいと思いながら溜めてきたものを、吐き出したのだった。  そうして、ひと通り話し終わり、何だかホッとしたとき、 「往くときの列車は稲垣さんと一緒だったそうじゃないか」  と、精一が言った。 「そう、そうなの」  美緒は答えた。  旅先で見聞きした事柄が沢山ありすぎ、稲垣のことなど忘れていたのだ。 「今日の午後、稲垣さんと校内で顔を合わせてね、そのとき、美緒たちと会ったと聞いたんだ」 「えっ、この人に聞いたんじゃなく、稲垣先生に? じゃ、先生、朝、東京駅へ着いて大学へいらしたのね」  美緒は、昨日の夕方、出雲市駅で「出雲2号」に駈け乗った稲垣の姿を思い出しながら、言った。 「東京駅? 美緒たちと同じように、米子から飛行機で帰ったらしかったがね。詳しく聞いたわけではないが、十一時近くに羽田に着き、家へ寄らずに来たというような話だった」 「そう」  美緒がちょっと合点のゆかない感じで首をかしげると、 「美緒は何か知っているの?」  と、章子が訊いた。「朝、東京駅へ着いて……なんて」 「うん」 「帰りも列車に乗られるという予定を、伺っていたとか……?」 「そうじゃないの。稲垣先生が昨日の夕方、『出雲2号』に乗られるところを、偶然、出雲市駅で見かけたの。それなら、東京駅に今朝六時半に着いたはずだから」 「稲垣さんはそんなことは何も言わなかったが、言葉を交わしたのかね?」 「先生は気づかれなかったし、お話はしなかったけど」 「じゃ、人違いかもしれん」 「ううん、先生だったわ。富山先生と二人で見たんですもの」 「なら、途中で降りたんだろう」 「『出雲2号』はたしか出雲市・米子間は立席特急券で乗車できたはずですから、松江か米子まで行って、降りられたのかもしれません」  精一に、壮がつづけた。 「そうね」  美緒は応じた。  稲垣が飛行機で帰ったというのなら、そうとしか考えられない。 「東京から来ていた人間が東京行きの寝台特急に乗り込めば、当然、それで帰ると思いますから」  壮の言う通りだった。  立席特急券については美緒も知っていたが、途中で降りるといった可能性は頭をかすめもしなかったのだ。  しかし、そんな件はどうでもよかった。稲垣が列車で帰ろうと、飛行機で帰ろうと、美緒たちには関係がない。  そう思い、美緒は話題を変えようとし、ふと、一昨夜「出雲3号」に乗り合わせたときの稲垣の様子に引っかかりを覚えた。  あのとき、稲垣は、美緒に行き先などを尋ねられるのを避けるようにしていた感じがあった。  美緒はその話をし、 「山陰へ何をしに行かれたのかしら?」  と、半ば精一に尋ねるようにつぶやいた。 「訊いたわけじゃないが、例の中央日報の件じゃないかね」  精一が言った。 「中央日報の件?」 「美緒たちは知らないか」  精一が美緒と章子の顔を交互に見やってから、視線を壮に向け、「黒江君は聞いていると思うが」 「はい」 「なーに?」  美緒は恋人を見つめた。 「稲垣さんによれば、慶明大学医学部教授という肩書と名前を無断で利用されたというんだが、真相は分からん」  精一がここで、ヘルス・ワン騒動について、中央日報に載った記事の概略を説明した。 「そんなことがあったんですか」  章子が驚いた顔をして言った。  中央日報を購読していないので、美緒と同様、知らなかったのだ。 「それで、『出雲3号』でお会いしたとき戸惑ったような顔をされ、翌朝も、私に詳しい行き先など訊かれるのが嫌で、鳥取の直前までカーテンを引いていたのね、きっと」  美緒は言った。「それなのに、私たちに会ったというお話をお父さんにしたのは、黙っていたら、後で私たちに聞いたとき変だと思われる、と考えたのかしら?」 「そのへんは分からんが」 「あ、でも、君島という社長さんは自殺してしまったわけでしょう? 稲垣先生は山陰へ行って、どうされるつもりだったのかしら?」 「社長は亡くなっても、友ヘルスアカデミーという会社の関係者はいるだろう」 「そうか」 「もし稲垣先生、勝手にお名前を使われたのだとしたら、お気の毒ね」  章子が言った。「あなたが入試詐欺の疑いで警察に連れて行かれたときみたいにならなければいいんだけど」  その入試詐欺事件のとき、精一は、壮が事件捜査に協力して知り合っていた警視庁の勝部長刑事によって助けられたのだった。 「お父さんは無実だったけど、稲垣先生の場合は、そのへんまだはっきりしないんでしょう? それに、先生が関係していたかどうかを知っているただ一人の人……だと思うんだけど……君島という社長さんが自殺してしまったというのも、何だか少し引っかかるわね」 「それはそうだけど……」  章子が不満そうにつぶやいて壮に顔を向け、「黒江さんは、どう考えてらっしゃるのかしら?」 「僕にもよく分かりません」  章子が絶対の信頼を寄せている娘の恋人が、答えた。 「そう」 「君島という社長は、新聞の談話で、『稲垣先生は嘘をついている、いずれ推薦文を書いてもらった経緯については明らかにする』と言っているわけですが、それから間もなく自殺してしまったというのは、美緒さんと同じように、気になります」 「君島社長が自殺したのは、彼の談話こそ嘘で、どうにもならなくなったからじゃないのかね」 「たしかに、その可能性もあると思いますが」 「どちらにしても、もういいわ、稲垣先生のお話は」  美緒は気を変えるように明るい声で言った。「それより、今度は、富山先生と二人で練った、『「怪談」殺人事件』の構想を聞いて」 「いやよ、もう。黒江さん、お帰りにならないと、電車がなくなってしまうでしょう」  章子がわざと冷たい調子で言った。 「お母さんが子供の話をよく聞いてあげないと、子供はグレちゃうわよ」 「どうぞ、勝手にグレなさい」     4  翌十一日(金曜日)、朝の簡単な打ち合わせが済むと、若月は小笠原を伴ってパトカーで境港中央警察署へ向かった。  境港市は、米子から北へ延びた弓ガ浜半島の先端に位置し、島根半島の美保関《みほのせき》町と境水道を隔てて接していた。  山陰有数の商業港、漁港である。  米子との距離はおよそ十五キロ。JRの境線も通じ、米子と一番強く結び付いているが、大社町や出雲市、松江から行く場合は、米子を通らないほうが早い。  国道431号線が宍道湖、中海の北側を通り、境水道に架かる境水道大橋を越して、米子まで延びているからだ。  若月たちも当然その経路をとり、全長七百九メートル、海面から一番高いところが四十メートルという大橋の名にふさわしい橋を渡ったのは、出雲北署を出てから約一時間二十分後だった。  境港中央署は、JRの駅と漁港を結ぶ通りに建っていた。  三階建ての小さな建物である。  若月たちは電話を入れてあったので、君島友吉(五十一歳)の変死を扱った刑事の一人が待っていて、二階の刑事課の部屋ですぐに話を聞くことができた。  金田という五十歳前後の巡査長だった。  金田は、他殺の疑いが完全には消えていない点を認めたうえで、自分たちが自殺と断定した経緯を説明した。  それは、若月たちが日下峰子から聞いた話と大筋で一致していたし、その時点では当然の結論のように思えた。 「川べりに誘い出し、突き落とせば、君島は泳げなかったようですし、水も冷たいですから、簡単に殺せたと思います」  金田は言った。「ですが、彼を殺す動機を持つ者が見つからなかったんです。ヘルス・ワンの被害者にしても、彼を殺してしまったのでは、元も子もありませんし。  一方、君島には、自殺する動機が十分あったんです。奥さんの話によると、彼は仕事の内容に関しては一切と言っていいほど家で話さなかったらしく、具体的な点は何も知らないというんですが、ヘルス・ワンの問題が起きてから、どうしたらいいか分からない、と夜も眠れないほど悩んでいた、といいますから」 「先月二十五日、君島の死んだ日の行動はどんなものだったんですか?」  若月は訊いた。 「ヘルス・ワンの製造はもう停止していたんですが、昼はそれでも自宅から五百メートルほど離れた会社へずっと行っていたそうです。そして、夕方一度帰宅し、いろいろ世話になっている高石将人《たかいしまさと》という市会議員のところへ相談に行く、と言って、車で自宅を出ています」  高石将人の名は、若月も聞いたことがあった。松江市内で高石食品という水産物加工・販売会社を経営している男である。 「高石氏の奥さんによると、六時頃に見え、高石氏が帰らないので三、四十分待っていて帰った、という話です」  金田がつづけた。「ひどくしょんぼりした様子だったので、心配して、もうしばらく待ったらどうかと勧めたらしいんですが、また明日来ますと言って出て行った、というんです。  その後、彼が自分の車で境港まで来たのは確実だと思いますが、彼と会った、あるいは彼を見たという者は見つかっていません」 「明日また相談に来る、と高石氏の奥さんに言っておきながら、なぜ自殺したんでしょうね?」 「高石氏の話では、その前、すでに何度か電話で相談を受けていたんだそうです。しかし、彼としては、問題が問題なので知り合いの弁護士を紹介するぐらいしかできないと答えていた、というんです。ですから、最後の相談のつもりで高石氏を訪ねたものの、君島には、もうどうにもならないのが分かっていたんだと思います」 「なるほど」  若月はうなずき、「ところで、金田さんたちは、東京に住んでいる大学医学部教授の稲垣庸三という男をご存じですか?」 「知っています。ヘルス・ワンの推薦文を書いていた慶明大学教授ですね」 「そうです。君島が死んだとき、この男について調べられたんでしょうか?」 「別にこれといって調べていません」 「稲垣は、推薦文など書いた覚えがない、と首都圏で発行されている新聞のなかで言っているらしいんですが」 「新聞は見ていませんが、それでしたら、君島の奥さんから聞きました」 「奥さんはどういうふうに?」 「君島が、『いずれおまえにも話すが、稲垣の言っていることは、嘘だ』と一度だけ口にしたことがあったそうです。しかし、さっきも言いましたように、彼はヘルス・ワンの問題が起きても、奥さんに詳しい説明をしたことがないので、具体的にはどういう事情か分からなかったという話でした」  金田はそこで一度言葉を切り、不安そうな顔をして、 「それより、その稲垣という大学教授が君島の死に関係している可能性があるんでしょうか?」  と、逆に訊いた。 「分かりませんが、もしかしたらあるかもしれないと考えています」 「有名大学の医学部教授が、推薦文を書いたか書かないかぐらいで、殺人など犯すでしょうか?」 「有名大学の教授という地位にあるからこそ……とも、考えられます」 「それにしても、東京と山陰の境港では、あまりにも遠く離れていますからね」  たしかに、感覚的には、東京に住んでいる人間が山陰の田舎町まで来て殺人を犯した、とは考えにくい。  が、飛行機で飛べば、東京・米子間はわずか一時間二十分の距離であり、米子空港は弓ガ浜半島にあるので、空港から境港まで車で十分とかからないのだ。 「とにかく、警視庁に依頼して、その晩稲垣がどこにいたか調べてもらっていますので、結果が分かりましたらお知らせします」  若月は言い、礼を述べて、境港中央署を出た。     5  弓ガ浜は、名の通り、弓のように綺麗でゆるやかな弧を描いてつづいていた。  若月たちの乗ったパトカーは、その海岸に並行した国道431号線を皆生温泉へ向かった。  皆生ビーチホテルとスナック「漁火」へ行き、日下峰子の話のウラを取るためである。  若月には、金田たち境港中央署が稲垣のアリバイを調べなかった点を責める気はなかった。  若月たちだって、君島の死という事実だけをポツンと与えられたら、稲垣に対し、そこまで疑いを向けたかどうか分からない。彼らは、ヘルス・ワン騒動に関係していた佐江田緑が殺され、その容疑者として稲垣が浮かんできたため、君島の死にも疑いを抱いたのである。  若月たちは、正面からわずかに左に寄ったかなたに大山の雄大な姿を眺めながら松林の間を十二、三分走り、左へ入って皆生温泉に着いた。  皆生温泉は、正面に美保関、隠岐を望む、日本海に面した温泉だった。山陰の商都・米子の奥座敷ともいわれ、鳥取県一の規模である。  旅館、ホテルの数は約四十軒。デラックスな宿が少なくなく、皆生ビーチホテルは、中級の部類だろうか。  玄関にパトカーを乗りつけては営業妨害になりそうだったので、若月たちは百メートルほど手前で降り、歩いてビーチホテルへ行った。  フロントで用件を告げると、すぐに別室へ通され、頭の禿げた五十年配の支配人が応対した。  夜間フロント係は自宅に帰っていたので、電話で呼んでくれた。 「近くですので、すぐまいりますから」  支配人は言い、従業員の一人に持ってこさせた宿泊カードと支払い明細書の写しを見せ、 「一昨夜、たしかに佐江田緑様他一名の方が泊まっておられます」  と、若月のほうへ顔を上げた。 「夕方六時頃、男から電話がかかっているらしいんですが、分からないでしょうか?」  若月は訊いた。 「ホテルの外からですね?」 「そうだと思います」 「それなら、交換を通っているので分かります。メモさせておりますから」  支配人が答え、脇に立っている若い部下を見上げて緑たちの泊まったルームナンバーを伝えた。  調べて来い、と命じたのである。  従業員はじきに戻ってきた。 「六時五分にかかっております」  彼は若月を見て、答えた。 「男は交換手の方にどう言ったんでしょう?」  若月は訊いた。 「お客様のお名前を言われ、泊まっているはずなので、その部屋へつないでくれ、そう言われたようです」 「客は佐江田緑と日下峰子と二人いたわけですが、どっちの名を言ったのか、分かりませんか?」  肝腎な点だった。  若い従業員が困ったように首をひねり、 「すみません、もう一度聞いてきます」  と、部屋を出て行った。 「役立たずで申しわけありません」  支配人が苦い顔をして謝った。 「いや、私の訊き方がまずかったんです」 「我々は上の人から一を言われれば三か四ぐらいまでは読んだものですが、今の若い連中は逆に三か四を言って、やっと一しか通じませんから、骨が折れます。……あ、いや、刑事さんはもちろん違うでしょうけど」  小笠原を見て支配人が慌てて付け加えたとき、従業員が帰ってきた。 「はっきりとは覚えていないそうですが、なんとか緑様……そう言われたような気がする、と言っております。色に関係していた、という記憶があるそうですから」  緑と峰子と音《おん》は似ているが、それなら確かだろうと若月は思った。  ノックの音がして、三十七、八歳の女性と、つづいて六十歳前後の痩せた男が入口に姿を見せた。  男は一昨夜の夜間フロント係、女は緑たちの部屋を担当した仲居だった。  二人は支配人に入るように言われ、緊張した面持ちで若い従業員の横に来て立った。  若月は警視庁から電送してもらった緑の写真と、峰子に借りて複写した彼女の写真を見せ、一昨夜の泊まった当人である点を確認してから、いろいろ質問した。  二人とも、記憶に多少曖昧な点があったものの、証言内容が峰子の話と大きく食い違うことはなかった。  峰子が酒を飲んでホテルへ帰った時刻、腹が痛いと言ってフロントに降りてきてしばらくお喋りをしていった時刻、朝、食事の支度ができたといって彼女に電話した時刻……など、峰子の話したのと十分と狂いがなかった。  ビーチホテルを出た若月たちは、パトカーに乗らず、ホテルで聞いてきた「漁火」まで五、六分歩いた。  当然ながら、「漁火」の合成樹脂の黒いドアには鍵がかかっていた。  近くにはバーやスナックが多く、灯りの化粧がほどこされる前のしどけない姿を晒《さら》している。  ホテルの名簿で調べてもらったところ、桝本トキというのが女経営者の名で、店につづいている裏の家に住んでいるらしい、という。  そこで、若月たちは、人がやっと一人通れるほどの路地を入り、マジックインキで「桝本」と書かれた紙の標札が付いた家のベルを鳴らした。  三回鳴らしたところで、「はい」という気怠《けだる》そうな女の声が聞こえ、ガラス戸が開けられた。  黄色いガウンを着た四十二、三の女だった。  若月が身分を告げ、 「桝本トキさんでしょうか?」  と問うと、女は目に不安そうな色を浮かべてうなずいた。  若月は彼女を安心させるため、ある事件の参考のために調べているのだが、一昨夜の客について聞きたいのだ、と言った。  女がわずかにホッとしたような顔になり、玄関へ入れ、電灯を点《つ》けた。  若月は峰子の写真を見せ、 「この女性をご存じですか?」  と訊いた。 「ああ、日下さん。東京から見えたって言ってましたけど」  女が写真を見るなり、答えた。 「一昨夜、店に来たわけですね?」 「ええ」 「何時頃?」 「九時半頃だったわね。一緒に来た方が男の人とどこかへ行ってしまったとかで、ちょっと荒れてましたけど、別のお客様と意気投合というのかしら……仲良くなって、たしか朝の四時近くまで飲んでましたわ」 「九時半頃から午前四時近くまで、ずっと店にいたんですか?」 「いましたよ」 「しばらく席を外した、ということはない?」 「ありません。お店を閉めて、私もお付き合いしたんですから、確かです」  若月は女に礼を言い、玄関を出た。 「これで、少なくとも日下峰子はシロと決まりましたね」  路地から通りへ出て、パトカーの待っているほうへ歩き出すと、小笠原が言った。 「うん」  と、若月はうなずいた。  峰子にも、緑を一昨夜七時前後に殺すことはできた。  だが、ここ皆生温泉から日御碕まで死体を運ぶのは不可能だった、と判明したのである。 「一昨日の夕方、ホテルの緑に電話してきた男、この男を犯人とみて、間違いないですね」 「俺もそう思うが」 「稲垣という男でしょうか?」 「そこまではまだ何とも言えんよ。当面の問題は、稲垣のアリバイがどうなっているかだ」  若月たちがパトカーに戻ると、まさにその件で溝口から連絡が入っていた。  早くも、警視庁から報告があったというのだ。  若月はパトカーに乗り、溝口に電話をかけた。 「先月二十五日、今月九日とも、稲垣は山陰へ来ていたよ」  溝口が言った。  声から彼の興奮が伝わってきた。  若月も、胸が激しく鳴り出すのを感じた。 「稲垣本人には当らず、彼の奥さんに訊いたんだそうだ。先月二十五日の夜は美保関の『景楽館』、一昨夜は米子の『米子パークホテル』に泊まったらしい。で、そっちへ行っている若月《ツキ》さんたちに、稲垣がそれらの晩どうしていたか、調べてもらいたいと思ってね。  あ、それから、稲垣は車の運転免許を持っているそうだ」     6  若月たちは、先に「米子パークホテル」を訪ね、国道431号線を境港まで戻って水道大橋を渡り、海沿いの狭い道を島根半島の東の先端へ向かい、美保関の「景楽館」へ行った。  米子パークホテルは、JR米子駅から七、八百メートル離れた国道9号線沿いに建っていた。  ルームチャージだけでも、食事付きでも泊まれる七階建ての大きなホテルである。  一方、景楽館は、美保神社のすぐ近く、美保関港に面して建つ四階建ての観光ホテルで、二食付きが原則だった。  稲垣は、今月九日「米子パークホテル」に、先月二十五日「景楽館」に、たしかに一泊していた。  いずれも、二日前に本名で電話予約し、一人であった。  二十五日は、夕食後の八時半過ぎ洋服を着て外出し、十時過ぎに景楽館へ戻ったが、どこへ行ってきたのかは分からない、という。  また、一昨夜は、食事なしでシングルの部屋をチャージし、八時にチェックイン。その後外出したかどうかは分からない、という。  どちらのホテルの場合も、外部から彼の部屋に電話がかかった形跡はなく、部屋からもかけられていない——。  若月たちは景楽館を出ると、溝口に稲垣の写真を至急用意してくれるよう電話し、松江温泉のTホテルへ向かった。  峰子から、稲垣の背丈や体付きなどの特徴を訊くためである。  だが、彼らがTホテルに着いたときは、遺体を引き取りに来た緑の兄(緑には両親がいない)にスーツケースを渡し、峰子はすでにチェックアウトした後であった。 「東京へ帰ると言っておられましたが」  朝、「出雲1号」で着いたという埼玉県寄居町に住む緑の兄が、言った。  帰ってしまったのでは、仕方がない。  若月たちは、緑の兄に、昨日峰子から聞いたのと同様の事情——緑が充也の死はヘルス・ワンのせいだと言っていたこと、あくまでも責任を追及するつもりだと言っていたことなど——を聞き、捜査本部から稲垣の写真コピーが届けられるのを待ってふたたび美保関へ戻った。  先月二十五日の夜八時半過ぎ、稲垣が食事後「景楽館」を出てどこへ行ったかを突き止めるため、聞き込みをして歩いた。  もし稲垣が君島の死に関係しているなら、その時間に境港まで行っているはずであった。その場合、レンタカーを用意しておいたか、さもなければバスかタクシーであろう。  バスは、松江行きも境港行きもずっと前に最終が出てしまった後だと、すぐに分かった。  とすると、残るは、レンタカーかタクシー。  若月たちの予想していたのより簡単に、決定的な事実が判明した。  境港に営業所を持つタクシー会社の運転手が、二十五日の夜八時半頃、美保神社前まで一人の男の客を迎えに行き、境港の「隠岐汽船乗り場」まで運んだ、というのだ。  その客は、夕方五時頃JR境港駅から美保神社まで乗せた客で、夜八時半に同じところまで迎えに来てくれ、と頼まれていたのだという。  若月たちは、この話を電話でタクシー会社の配車係から聞くと、境港駅前の営業所へ急行した。  配車係は、当の運転手を事務所へ呼んでくれていた。 「もう船の最終便はとっくに出た後ですし、おかしなところで降りるなと思ったんですが……。その後、どうしたのかは知りません」  五十歳前後の運転手は、若月の示した稲垣の写真を見、この男に間違いないと答えた後で、言った。  ちなみに、隠岐汽船のフェリー乗り場と君島が死んでいた現場とは、四百メートルほどの距離であった。  帰り道、若月たちは松江の高石食品に寄り、高石将人から話を聞こうとした。だが、高石は東京へ出張中のため、会えなかった。 第四章 東京・疑惑の追跡     1  出雲空港は出雲市と松江の間、宍道湖の南西の湖畔にあった。  出雲空港といっても、所在地は出雲市ではなく、簸川《ひかわ》郡|斐川《ひかわ》町。  大社からだと、だいたい松江からと同じぐらいの距離である。  翌十二日、土曜日の朝、若月と小笠原は、パトカーで三十分ほど飛ばして出雲空港へ行き、午前九時五十分に飛び立つ第一便、JAS(日本エアシステム)272便で東京へ向かった。  警視庁を訪ねて、捜査の協力の礼を述べ、それから稲垣庸三に会って事情を質《ただ》すためである。  若月たちは、昨日、君島の死んだ先月二十五日、稲垣が美保関に泊まり、夜、君島の死亡した現場の近くまで行っていた事実をつかんだ。九時四十分頃、JR境港駅前から、稲垣が来たときとは別の会社のタクシーに乗って美保関まで戻った事実も、その後判明した。  これは、佐江田緑の殺された九日の夜、やはり山陰まで来て米子のホテルに泊まっていた事実と合わせ、稲垣の容疑をいっそう濃くする、重大な事実だった。  日下峰子の話によると、稲垣にとって、君島と緑は、ともに彼の社会的生命を葬りかねない危険な存在だった。いや、社会的生命だけではない。君島の証言と緑の追及次第では、彼は刑事罰さえ受けなければならなかったかもしれないのである。  つまり、稲垣には、二人を殺す動機、機会ともに存在することが明らかになったのだ。  若月たちは、もちろん峰子の話をそのまま信じたわけではない。  峰子に関する若月の第一印象は、疑わしさの残るものだったし、彼女は緑と一緒に山陰まで来て、生きている緑を見た最後の人間(犯人を除いて)だったからだ。  皆生ビーチホテルと「漁火」へ行って峰子の話のウラを取っただけでなく、警視庁と秋田県警にも依頼して彼女について調査した。  警視庁には、峰子の職業と緑との関係、「ヘルス・ワン被害者の会」について、秋田県警には、実家の父親が彼女の話したような事情で死亡した事実があるかどうか、調べてもらったのである。  その結果、峰子の職業、父親の死、緑との関係などは彼女の話した通りであり、緑が「被害者の会」の急先鋒で、君島が死んで緑もいなくなれば、十中八九責任追及は尻すぼみになり、会は自然消滅するだろう、といった点が確認されたのだった。  飛行機は、定刻より十五分遅れの十一時二十分に羽田に着いた。  山陰の天気は今日から崩れ始め、曇っていたが、東京は晴れていた。  若月たちはモノレールで浜松町まで行き、山手線の電車に乗り換えた。  若月は数えるほどしか東京へ来たことがないが、小笠原は東京の私立大学を卒業していたので、地理に明るかった。  気温は松江とほとんど変わらない。  警視庁で捜査共助課の岩崎という四十歳前後の刑事に挨拶し、日比谷まで歩いて地下鉄都営三田線に乗り、水道橋まで行った。  昼食をとってから慶明大学医学部に稲垣庸三を訪ねると、今日は大学へ出て来ていない、在宅しているかどうかは分からない——という事務員の話だった。  が、電話して行ったのでは、心の準備をさせてしまう。たとえ無駄足になったとしても、不意を襲ったほうがいいだろう。  そう判断し、若月たちは、中央線の電車で稲垣の自宅のある三鷹へ向かった。  稲垣の家は、三鷹駅の南口から歩いて十分ほどのところにあった。  小笠原によると、井の頭自然文化園に近い場所だという。  大学医学部教授という肩書から、若月はもう少し大きな屋敷を想像していたのだが、隣家とくっついた小さな二階家である。  彼が自分の感想を言うと、 「ですが、このあたりでこれだけの家を手に入れようとすれば、二億円はするんじゃありませんか」  と、小笠原が若月の認識不足を指摘するように言った。 「二億……!」  若月は驚いて若い相棒の顔を見た。 「もっとするかもしれません」 「ふーん、地上げで土地の値がはね上がった話は聞いていたが、都心から離れたこんなところで、猫の額ほどの土地が二億とはね。東京なんて、人間の住むところじゃないな」  若月は最後はつぶやくように言い、しかし今はこの土地が何億円しようが問題じゃない、と自分の気持ちを引き締めた。  腰ほどの高さの鉄の門扉を開け、二、三メートル先の玄関ポーチまで行って、インターホンのチャイムを鳴らした。  待つ間もなく、ハイという女の声があったので、庸三が在宅しているかと問うと、しているという答えが返ってきた。 〈これで無駄足にならなかった……〉  若月はそう思うと同時に緊張した。  いよいよ、犯人かもしれない男にぶつかるのである。  身分を告げ、面会を申し入れた。 「……では、ちょっとお待ちください」  女のほうも、警察と聞いたからだろう、とたんに緊張した声に変わった。  今度は、二分ほど待たされてから、ドアが開けられた。  出てきたのは、四十歳を過ぎたばかりぐらいの丸顔の女だった。  稲垣の妻らしい。  不安そうな目をしていた。  少し待たせたのは、たぶん、夫に若月たちの来訪を伝えてきたのだろう。 「どうぞ」  固い声で言い、若月たちを、上がってすぐ右手にある応接間へ招じ入れた。  応接セットだけでほとんどいっぱいの、六畳ほどの部屋だった。  彼女が茶を運んできて去り、さらに五分ほどしてから、茶のセーターを着た大柄でがっしりした体躯の男が入ってきた。 「お待たせしました、稲垣です。ちょっと書き物をしていたものですから……」  彼はテーブルの前に立って、挨拶した。 「こちらこそ、お忙しいところ突然お邪魔して申し訳ありません」  若月も腰を上げ、名刺を出して、自分と小笠原を紹介した。 「島根県警の刑事さんが、僕にどんなご用件でしょう?」  腰をおろすと、稲垣のほうから訊いた。  知らないわけはない。  目に、警戒するような光があった。 「先生は、一昨日、出雲の日御碕で佐江田緑さんの絞殺死体が見つかったのを、ご存じですか?」 「知っています。新聞で読みましたから。ああ、それで……」  彼はいま気づいたように言った。 「佐江田さんは、先生がヘルス・ワンの推薦文を書かれた件で、先生を相当恨んでいたようですが」 「僕は推薦文など書いていない!」  稲垣が少し強い調子で否定した。「あれは、君島という人が勝手に僕の名を使ったんだ。ただ、僕が何度そう説明しても、佐江田さんは信じてくれなかった」 「君島さんは、先生が嘘をついていると言っていたそうですが」 「彼こそ嘘をついたんですよ」 「しかし、君島さんはヘルス・ワンを売り出す直前、東京の先生を訪ねていますね?」  君島が稲垣を訪ねたという証拠はなかった。が、彼の妻から、「一度訪ねているかもしれない」と別の刑事たちが聞き込んできた。それを、若月は事実のように言い、相手の反応を見たのである。  稲垣が一瞬驚いたように若月を見つめ、それから、戸惑い、ためらうような表情をした。  それを見て、若月は、自分の想像が正しかったことを確信し、 「やはり、先生は嘘をついていたんですね?」 「いや、君島さんを知らないと言った点だけは嘘だが、肝腎《かんじん》の部分は嘘じゃない」 「しかし、君島さんが先生を訪ねたとなれば、そのとき、彼は先生に推薦文の件を頼み、先生は了承されたんじゃないんですか?」 「たしかに僕は頼まれた。だが、僕は了承しなかった」 「そもそも、君島さんと先生は、どういう知り合いだったんですか?」 「昔、何かの席で一度顔を合わせ、ちょっと話をしたことがあるというだけです。知り合いというほどのものじゃなかった。そんな人に突然訪ねてこられても、得体の知れない食品の推薦文など書くわけがないでしょう」  二人の関係が稲垣の言う通りのものなら、確かにそうだろう。しかし、二人の間には、稲垣が君島の頼みを聞かざるをえないような事情があったかもしれないのだ。 「彼と顔を合わせられた何かの席とは、どういう席ですか?」 「忘れましたね」 「昔というからには、君島さんが東京にいた頃ですね?」 「そう」  君島は、ずっと東京でサラリーマンをしていたのだった。それが、三年前、父親の郷里で、君島自身も子供の頃十年近く暮らした松江に三百坪ほどの土地を相続したのを機に脱サラして移り住み、「友ヘルスアカデミー」を始めたのである。 「いずれにしても、その君島さんは先月二十五日、境水道で死んでしまいました」 「ええ」 「要するに、もし先生の言い分が正しければ、ヘルス・ワンの推薦文に関して、先生には無実を証明する手段が失なわれてしまったわけですね」 「そうです。だから、彼の自殺で、僕はどんなに迷惑を蒙っているか」 「ですが、見方を変えると、こうも言えますね。もし、君島さんの言った〈先生が嘘をついている〉という言葉が正しかったとすれば、彼の死によって、その証明もできなくなった——」 「な、なにを言いたいんだ? それじゃ、僕が推薦文を書いたというのかね」 「今のところ何とも言えませんが、君島さんの死を自殺とは断定できない状況が出てきました」  若月は稲垣の目に視線を止めた。  稲垣がそれを微妙に外した。  彼の瞳には強い不安の色があった。  若月は、そこでわざとすぐには二十五日の夜の件には触れず、 「その問題はまた後にして、ともかく佐江田さんの件に話を戻しましょう」  と言った。  動揺を与えておく策を採ったのである。 「ヘルス・ワン被害者の会の会員たちは、君島さんが死んでやる気をなくしていたのに、佐江田さんだけは、先生の責任をあくまで追及すると言って譲らなかったそうですが」 「…………」 「そうした事情は、先生もご存じだったんじゃありませんか?」 「ま、だいたいの事情は」 「佐江田さんは、何度も先生に電話をかけ、あるいは先生を訪ねて行ったそうですが」 「数回ですよ」 「そのとき、彼女はどう言っていたんでしょう?」 「僕が嘘をついていると一方的に決めつけ、いま刑事さんが言われたようなことを言っていた……」 「あくまで先生の責任を追及すると?」 「そうです」 「ところで、三日前……九日の晩、先生はどこにおられましたか?」  若月は、稲垣の不意を衝いて肝腎の点に切り込んだ。     2  稲垣がハッと驚いたような表情をし、若月から目を逸《そ》らした。 「ぼ、ぼくが、佐江田さんを……」  彼の顔が赤くなった。 「お答えいただけませんか?」  若月は彼から視線を離さずに促した。 「僕は関係ない、僕は何もしとらん」  稲垣が声を高めた。 「では、どこにおられたんでしょう?」 「…………」 「山陰へ行かれてますね」  稲垣がうなずいた。 「いつ行かれ、いつ帰られたんですか?」 「八日の夜九時二十分に東京駅を出る寝台特急『出雲3号』で行き、十日の朝、米子空港から飛行機で帰ってきた」 「九日の夜、泊まられたところは?」 「米子市内にある米子パークホテル」 「どういう目的で行かれたんでしょう?」 「観光だよ」 「ほう、お仕事を休んで、平日にお一人で?」 「僕は一人旅が好きなんでね」 「稲垣先生、そうした出鱈目《でたらめ》が通ると思っておられるんですか」 「出鱈目じゃない」 「松江は、ヘルス・ワンを製造販売していた友ヘルスアカデミーのある所ですよ。その近くの米子へあなたがたまたま観光で行っていたとき、ヘルス・ワンで子供を亡くしたと言ってあなたを責めていた佐江田さんも行き、殺された、というんですか」 「佐江田さんがどういう事情で山陰へ行っていたのかは、知らん。僕のあずかり知らないことだ」 「どうしても、偶然、観光で行っていたと主張される?」 「事実だから、仕方がない」 「では、質問を変えますが、あなたはわずか二週間前、先月二十五日にも山陰へ行かれていますね」 「…………」  稲垣が息を呑んだのが分かった。 「いかがですか? もちろん、先ほど話した君島さんが境水道で不審な死を遂げた日です」  稲垣の顔には、不安を越し、恐怖の色が滲《にじ》み出していた。 「あなたが、その晩、境港へ車で二十分ほどで来れる美保関の景楽館というホテルに泊まっていた事実は分かっているんです」 「分かっているなら、訊く必要がないだろう」  稲垣が、喉から声を押し出すようにして、低く言った。 「わずか二週間前のそのときは、何をしに山陰へ行かれたんですか?」  若月は追及をつづけた。  稲垣は無言だった。  若月たちがどこまでつかんでいるのか考え、どう答えるべきか必死で模索している感じだった。 「やはり観光と言うつもりですか?」  若月は、稲垣が肯定するのを期待した。  稲垣がそう答えたら、そのときこそ、夜ホテルを出て境港のフェリー乗り場へ行っている事実をぶつけるつもりだった。彼の矛盾を突き、一気に攻め落とすつもりだった。  しかし、相手も若月の意図を読んだのか、 「いや」  と、答えた。 「では……?」 「……君島という人に会いに行った」  若月が秘めていた必殺パンチは、躱《かわ》された。  が、彼は追撃の手を緩《ゆる》めず、 「それで、夜、境港のフェリー乗り場で会ったわけですな?」  稲垣が一瞬、やはり……という顔をしてから、 「いや、会っていない。確かに彼と九時にフェリー乗り場で会う約束をした。彼がその場所を指定したんだ。だが、僕が約束通りに行ったにもかかわらず、彼は現われなかった」  と抗弁した。 「数百メートルしか離れていないところまで来ていながら、あなたの前には現われず、川に身を投げて自殺した、というわけですか」 「そういうことになる」 「そんな話が信じられますか」 「信じられようと信じられまいと、事実だから仕方がない。彼には、僕に対する弁明のしようがなかったんだから、会うわけにゆかなかったんだろう」  君島の死が他殺であるという証拠がないだけに、若月たちは弱かった。  君島がはっきり殺されたと分かっていれば、殺したのは稲垣しかいない。たとえ稲垣が手を下したという直接的な証拠がなくても、若月たちがこれまでに手に入れた状況証拠だけで、彼を追い詰められるだろう。が、君島にはこれといった外傷もなく、その死を殺人と断じる材料はないのだった。 「分かりました、その点はもう少し調べてからまた伺いましょう」  若月はひとまず引き、 「で、さっきの件ですが、わずか十日余り前に行ったばかりの山陰へ、今度は観光に行った、というんですか?」  と、話をふたたび緑殺しに戻した。 「先月行って気にいったので、今度は観光に行った——それで悪いかね」  大きな難関を切り抜けたせいか、稲垣が唇にかすかに笑みを滲ませて答えた。  その様子から判断して、観光旅行という不自然さを突いたところで、とても事実を認めそうにはなかった。  そこで、若月は、九日「米子パークホテル」にチェックインしたのは何時か、と具体的な点に質問を移した。 「八時頃だったかね」 「その後は?」 「ずっと部屋にいたよ」 「それを証明してくれる方はいますか?」 「いるわけがないだろう、寝ていたんだから」  彼が外部の人間と電話で話していないのは確認済みである。 「では、八時にホテルへ入られるまで、どこで何をしておられたんですか?」 「午前十一時近く、出雲市に『出雲3号』が着いてから、出雲大社、日御碕と見て回っていた」 「お一人でですか?」 「もちろん」 「夜まで?」 「いや、夕方四時四十分、出雲市から寝台特急『出雲2号』に立席特急券で乗り、松江で降りた。そして、しばらく街をぶらぶら歩いて、食事をし、タクシーで米子まで行ったら、八時頃だった」 「食事をした店の名は?」 「郷土料理の店だったが、覚えてないね」 「場所ぐらい分かるでしょう?」 「松江大橋を渡って少し行ったあたりだったような気がするが、すぐに入ったわけじゃないから、分からない」  稲垣の証言はかなり不自然だった。  米子のホテルに泊まるのに、なぜ松江で途中下車までして食事をしたのか? いや、その前に、出雲大社や日御碕を見物するのに、なぜ米子に宿を予約したのか? 翌日、大山にでも登ったというのなら、一応理屈が通る。が、彼は、十日、米子周辺をまったく見物せず、朝の飛行機で東京へ帰っているのだ。  稲垣が米子のホテルに部屋を取ったのは、すぐ近くの皆生温泉に泊まる予定だった佐江田緑との関係しか考えられない。九日の夕方六時頃、皆生ビーチホテルに電話をかけ、緑を呼び出したのは彼に違いない。若月はそう思った。「出雲2号」が米子に着くのが五時五十分なので、時刻も符合していた。  緑は稲垣の責任を追及していた。二人は敵対関係にあった。それなのに、稲垣が緑の泊まるホテルをどうして知ったのか、どういう口実をつかって呼び出したのか、は不明である。  が、君島の妻を交じえた三人だけで話し合おう、そのとき事実をはっきりさせる——そんなふうに前から言っておき、九日の夕方ホテルに電話して時間と場所を告げたとすれば、緑が稲垣の思う通りに動いた可能性はある。  とすれば、稲垣は、皆生温泉の人気のないところに車を停めて緑を待ち受け、首を絞めて殺せた。というより、彼はそうしたのだ。七時前後に殺し、死体をひとまずトランクに入れて車をどこかに駐めておき、米子パークホテルにチェックインしたに違いない。そして、深夜そっとホテルを抜け出し、死体を日御碕まで運んで捨ててきたのだろう——。  しかし、若月がいくらそう考えても、証拠がなかった。稲垣が緑に電話したという証拠も、二人が会ったという証拠も。  稲垣を逮捕するには、少なくともそれらいずれかを示すものを手に入れるか、九日の夜彼が米子と日御碕の間を往復した事実を明らかにしなければならなかった。  そうしないかぎり、彼は決して崩れることはないだろう。  有力容疑者を目の前にしながら、何もできずに引き下がるのは悔しい。といって、これ以上どうしようもない。  若月は、今日のところは事実関係をはっきりさせ、稲垣の対応の仕方を見ただけでよしとしよう、そう自分を納得させ、さらに二、三の点を尋ねて腰を上げた。     3  稲垣の家を出た後、若月は電話ボックスを捜し、溝口に電話をかけた。  稲垣の事情聴取の結果を報告し、九日に稲垣が出雲、松江、米子周辺でレンタカーを借りていないか調べてくれるよう、頼んだ。 「分かった。他県から乗り入れている可能性もあるので、島根、鳥取だけでなく、岡山、兵庫両県警にも捜査を依頼しよう」  溝口が答えてから、昨日若月たちの会えなかった松江市議の高石将人に水谷刑事たちが会ってきた、と言った。「だが、高石氏の言うには、君島の相談に乗ってやっていたとはいっても、友ヘルスアカデミーの実態については何も知らなかったし、稲垣という名も聞いた覚えがない、ということだ。だから、これといった新しい事実はつかめなかった」  電話を終えると、若月たちは、井の頭公園の中を抜けて吉祥寺駅まで歩いた。  峰子は昨日東京へ帰っているはずなので、五反田の彼女のマンションを訪ねるつもりだった。  九日の夕方、皆生ビーチホテルの部屋に男から電話がかかってきたときの様子、緑の反応を、もう一度訊いてみようと思ったのである。  今後、稲垣がどう出るかで分からなかったが、今のところ若月たちは、緑の別れた夫、中央日報科学部の大原関記者、それにヘルス・ワン被害者の会の何人かの会員に会い、明日か明後日、出雲へ帰る予定になっていた。  井の頭線の急行で渋谷まで行き、山手線に乗り換えた。小笠原によると、そのほうが、中央線で都心まで戻るよりずっと早いのだという。  それでも、五反田の駅から山手線の内側へ七、八分歩いたところに建つマンション「エスカイア山ノ手」に着いたときは、四時近かった。  メールボックスで九〇七号室という峰子の部屋を確かめ、エレベーターで九階まで上った。  だが、峰子は不在だった。  すでに勤めに出たのかもしれないし、緑の葬儀の準備を手伝うため、埼玉の彼女の実家へでも行っているのかもしれない。  折角来たのだからと思い、念のために、若月たちは両隣りのチャイムを押してみた。  後に押した左の部屋から、水商売風の三十歳前後の女が顔を出した。  若月は、隣室の日下さんがどこへ行っているか知らないだろうか、と訊いた。 「知らないわ。たまに顔を合わせたとき立ち話をするぐらいで、ほとんどお付き合いがないから」  女が面倒臭そうに答えた。  髪をスカーフで包み、化粧の途中のような顔をしていた。 「このマンションで、日下さんとお付き合いのあった人はいないでしょうか?」 「いないと思うけど……あなたたち、だーれ?」  女が少し好奇心をそそられたような表情になり、若月と小笠原の全身を、観察するような目で見た。  若月は、身分を告げた。  もしかしたら、参考になる話が聞けるかもしれない、と思ったのだ。 「へー、刑事さん!」  女がますます興味を覚えたらしい目をし、ドアを広く開けた。「それも、島根県のほうから……日下さん、何かしたの?」 「いえ、ある事件の参考までに、ちょっとお話を聞きたいと思っただけです」 「事件て、当然、山陰のほうで起きたわけね?」 「そうです」 「どんな事件?」 「東京に住んでいる佐江田緑さんという日下さんの友達が日御碕というところで殺されていたんですが、知りませんか? こちらの新聞にも出たはずですが」 「日御碕なら、昔行ったことがあるけど、知らないわね」 「この女性ですが」  若月は緑の写真を示し、「日下さんのところへ来ていなかったですか?」 「会ったこと、ないわ」  女が写真を見て、首を横に振った。「というより、男の人なら時々来ているみたいだけど、女の人なんて来ていたかしら?」 「男の人は来ているんですか。それは、日下さんとどういう関係の……?」 「ま、お友達でしょうね」  女が意味ありげに笑い、「かなり年上の感じのお友達……」 「もしかしたらパトロンですか?」  今度は若月が少し興味をそそられた。 「さあ」 「いくつぐらいの男ですか?」 「一度横からチラッと顔を見ただけだからはっきりしないけど、四十四、五から五十ぐらいの間ね」  女の言った年齢から、若月はふと、いま会ってきたばかりの男の顔を思い浮かべた。 「身長や体付きは?」 「身長は百七十二、三センチぐらいかしら。かなり堂々とした感じ」  たぶん関係ないだろう。そう思いながらも、若月は、胸がざわめくのを覚えた。  身長百七十二、三センチの堂々とした体躯の男。年齢は四十四、五から五十ぐらいの間。  少なくとも、そこまでは、稲垣庸三(四十六歳)と符合していた。 「その男、顔を見れば、分かりますか?」 「さあ……たぶん無理ね。横顔を一度見たときもサングラスをかけていたし、あとは後ろ姿を二度ほど見かけただけだから」 「では、その男が時々日下さんのところへ来ているというのは、どうして知っているんでしょう?」 「声よ。このマンション、安普請だから、声が聞こえるの」  どういう声かは言わなかったが、女が意味ありげにニヤリと笑った。 「ですが、それだけでは同じ人間かどうか分からないでしょう?」 「そうね。でも、少なくとも、私は別の男が隣りへ入って行くか、隣りから出てくるのは見たことがないわ」 「男は、どれぐらいの間隔で来ているんですか?」 「月に一、二回ぐらいかしら。来たときはだいたい泊まって行くみたい」  女は顔を見ても分からないかもしれないと言ったが、若月は念のために稲垣の写真を取り出し、 「その男、この顔に似ていませんか?」  と、彼女に示した。 「どうかしら……?」  女が写真を見ながら首をかしげた。 「年齢と体付きは、あなたの言われたのに似ているんですが」 「そう言われれば似ているような気もするけど、髪がもっと長かったわ」 「髪型など変えられると思うんですが」  女はもう一度、写真を目に近づけたり離したりして見たが、結局、分からないと答えた。  少なくとも、男が稲垣である可能性は残った。  しかし、若月は、 〈稲垣が峰子の部屋へ出入りしていたなどということがありうるだろうか?〉  と、自問した。  もし、男が稲垣だったとしたら、事件の構図はいったいどうなるのだろう? 峰子はヘルス・ワンの被害者ではないのか。被害者になる前に、たまたま稲垣と親しい関係にあったというのだろうか。  そのへんの事情について、どう考えるべきか、若月の頭は整理がつかない。  とはいえ、まったくありえない状況ではないような気がした。  若月は、念のため、ヘルス・ワンという健康食品について峰子から聞いたことはないか、と質問を継いだ。 「ないわね」  女が答えた。 「日下さんのお父さんが亡くなった事情についてはいかがでしょう?」 「春頃だったかしら、お葬式で秋田へ帰ったって聞いたような気がするけど……あ、そうそう、七、八年ぶりだって話してたわ」 「七、八年ぶり? 日下さんはそんなに田舎へ帰っていなかったんですか?」 「お父さんと喧嘩して飛び出し、それきりだったみたいよ」 「お父さんの病気に効く薬を送っていた、と言ってませんでしたか?」 「そんな話、してなかったわね。というより、お母さんとは電話で話しても、お父さんとは口をきかなかったらしいから、そんなことしてないと思うけど。それに、こんなに早く死ぬと分かっていたら、一度、生きているうちに帰っていればよかった、って言っていたし」  若月は、「峰子の部屋に出入りしていた男」以上にはっきりした手応えを感じた。  今度こそ、予想外の獲物がかかったのは確実なようだった。  峰子の実家に当たった秋田県警からの報告によると、峰子には兄と妹がいるものの、二人は結婚して、仙台と大阪に住んでいる。だから、現在、実家にいるのは母親だけ。刑事たちが訪ねたところ、その母親が奥からヘルス・ワンの空の容器を持って来て見せ、父親の死ぬ一年ほど前から峰子が送ってきていた、と説明した——。  若月は、秋田県警に至急再調査をしてもらう必要があると思いながら女に礼を言い、ドアの前を離れた。     4  溝口に電話した後、若月たちは稲垣の写真を見せてマンション内を聞き込んで歩いた。  だが、管理人をはじめとして、誰も峰子の部屋へ出入りしている男だと証言する者はなかった。というより、峰子の部屋へそうした男が来ている事実を知っていた住人は、二人しかいなかった。  若月たちは地下鉄で大手町まで行き、中央日報の大原関記者に会い、さらに緑の別れた夫から話を聞いた。  しかし、そこでも、これといった捜査の手掛かりになりそうな話は聞けなかった。  あとは東武東上線で緑の実家へ行き、そこに集まっているヘルス・ワン被害者の会の会員たちに話を聞けば、今日の日程は終わりである。  夕食をとり、池袋へ向かう前、若月は、秋田の件がどうなったか訊こうと溝口に電話をかけた。  すると、若月が何も言わないうちに、 「十分ほど前、秋田県警から報告が入ったよ」  と、溝口が弾んだ声を出した。 「そ、そうですか」  若月も引きずられ、声を高めた。 「若月《ツキ》サンの想像通りだったよ。日下峰子の母親は、たいしたことだとは思わず、娘に頼まれて嘘をついていた。刑事がもう一度行って訊くと、すぐに事実を話したそうだ」 「では、峰子の父親はヘルス・ワンなど飲んで……というか、食べていなかった?」 「うん。一ヵ月半ほど前、空のヘルス・ワンの容器を送ってきて、もし警察が訊きに来たら、これをずっと父ちゃんが飲んでいたと答えてくれ、そう母親に電話で頼んだらしい。どういう症状が出たかといった点を説明し、メモまでさせて」 「峰子は、その理由を、母親にどう言ったんでしょう?」 「別に悪いことをするわけじゃないから心配はいらない、このヘルス・ワンは高い薬なので、それを自分が買って送っていたことにすれば、税金が安くなるのだ……そんな出鱈目の説明をしたらしい」 「娘の言葉を、母親は信じた?」 「まあ、娘の話だから、悪いことじゃなければどうでもいい……そんなところだったようだ」 「これで、峰子は虚偽の事実を告げて『ヘルス・ワン被害者の会』に入った事実がはっきりしたわけですね」 「うん」 「となると、問題は峰子の目的が何だったのか、という点ですか」 「そう。それは、どうやら今度の事件に大きな関わりを持っていそうだし」 「ええ。じゃ、これから峰子に会い、その点を追及してみます」  若月は、被害者の会の会員たちから話を聞くのは後回しにするつもりで、言った。 「頼む……あ、それから、レンタカーのほうだが、そっちははかばかしくない。少なくとも鳥取、倉吉、米子、境港、安来《やすぎ》、松江、出雲各市内のレンタカー会社には、九日に稲垣が車を借りた形跡はなかった」 「そうですか」  若月は、溝口との電話を終えると、つづいて緑の実家にかけ、峰子が行っているかどうか訊いた。  来ていない、という返事だった。  若月は受話器を置き、カードを抜いた。  溝口との話を小笠原に伝え、地下鉄で赤坂へ向かった。  峰子の勤めているクラブを訪ねるつもりだった。  それは、赤坂見附で降り、五分と歩かないところにあった。  狭い通りに面して建つビルの二階、「パープル」という店だった。  フロアが多少入り組んでいたが、広さは四、五十平方メートルといったところか。  土曜休日の会社が多くなったからだろう、店は空いていた。  若月が身分を告げ、日下峰子に会いたいと言うと、若い娘に「ママ」と呼ばれた三十五、六歳と思われる和服姿の女性が寄って来て、隅の席に案内した。 「このお店の責任者の安藤と申します」  彼女は安藤靖江と印刷された小さな名刺を出し、峰子は九日から欠勤していると言った。 「九日、十日は旅行に行くと言っていたんですけど、昨日と今日はお友達が亡くなったとかで……」 「電話があったんでしょうか?」  若月は訊いた。 「ええ、昨日。日曜日はうちもお休みですから、月曜日には出てくると思いますが」 「旅行はどこへ行くと言っていましたか?」 「さあ、聞いておりません」 「亡くなったという友達については、何か言ってませんでしたか?」 「ええ」  どうやら、峰子は、山陰行きも緑との関係も隠していたらしい。 「では、この男はお宅の店へ来たことがないでしょうか?」  若月は稲垣の写真を示した。「慶明大学医学部の教授で、稲垣というんですが」 「稲垣さんですか……? うちのお客さまにはいらっしゃいませんけど」  若月は、稲垣の年齢、容姿を言い、稲垣という姓でなくても峰子を贔屓《ひいき》にしている客のなかに当てはまりそうな者がいないかどうか、訊いた。  少なくとも、稲垣に体付きなどが似た男、つまり峰子の部屋へ出入りしている男が、この店へ来ていた可能性が高いからだ。 「お歳も、お体付きも……となると、おりませんわ」  安藤靖江は、いっとき考えるような目を宙に漂わせていてから答え、 「その方が、日下さんと何か?」  と、逆に質問した。 「いや、参考までにお訊きしただけですから」  若月はごまかした。 「島根県の刑事さんて言われましたわね。ということは、何か向こうの事件に、日下さんが関係しているんでしょうか?」 「まあ、間接的にですが」  答えてから、若月に迷いが生じた。  事実を話して、もう少し突っ込んで峰子の事情を聞くべきかどうか、という迷いである。  しかし、そうした場合、峰子がもし犯罪行為に無関係だったら、彼女の隠していた事柄を明かすことになり、彼女の立場をなくす結果になりかねないのだった。  若月が考えていると、 「あ、そうそう」  と、安藤靖江が何か思い出したらしく、不意に目を輝かせて言った。「松江って島根県ですわよね、鳥取県じゃなかったですわよね」     5 「そうです」  若月は答え、靖江の顔を見つめた。  東京の人間は、松江が島根県か鳥取県か分からないのかと思うと、悲しいというか腹立たしいというか……複雑だったが、そうした個人的な思いはひとまず措《お》き、彼女の話に期待したのである。 「もうだいぶ前になりますけど、いっとき、松江ご出身の人で、日下さんをとても贔屓《ひいき》にしてくださった方がおられたんです」 「もしかしたら、その人が、私の言った男に似ていた?」 「いえ、そうじゃないんですけど」  若月が急き込んで先を促したからかもしれない、靖江がすまなそうに声のトーンを落とした。「年齢は五十歳前後でしたが、お体はどちらかというと小柄な方でした。ただ、刑事さんが島根ということで……」 「そうですか」 「すみません」 「いえ。似ていなくても結構です、それはどんな人だったんでしょう?」  若月は念のために訊いた。  似ていなくても、松江出身の男という点に引っかかりが残ったからだ。 「うちに見えていたのは、三、四年前、半年ほどでしたから、現在はもう少しお歳を召した感じになっておられるかもしれませんが、何かのセールスをしているというお話でした」 「たった半年で、なぜ来なくなったんですか? 松江へ帰ったんですか?」 「日下さんのお話では、そうみたいでした。故郷の松江に帰られ、小さな会社を始められたとか」  若月の脳裏に、写真でしか見たことのない君島の顔が浮かんだ。  年齢、体付きが似ているうえ、三年前、彼が松江へ帰って友ヘルスアカデミーを始めたという事実とも符合していた。 「その男の名前は分かりますか?」  若月は訊いた。 「もう、お名前までは……。お名刺をいただいても、時々整理してしまいますから」 「君島友吉と言いませんでしたか?」 「君島さん……」  靖江は考えるように小首をかしげた。  若月は、君島の写真を持って来るべきだったと後悔しながら、 「松江で友ヘルスアカデミーという健康食品の製造販売会社を営《や》っていた男なんです。ヘルス・ワンという商品名について、日下さんに何か聞いていませんか?」 「ヘルス・ワンですか……。私は聞いていませんけど、日下さんと仲の良い娘《こ》を呼んでみましょうか?」 「お願いします」  若月が答えると、靖江が立って行き、別のテーブルで二人連れの客の相手をしていた二十七、八歳の背の高い女を連れてきた。 「村越晴美さんです。うちへお勤めしだしたのは今年の春からですので、昔のことは知りませんけど、日下さんといろいろ話しているようですから」  若月は、晴美という娘が前にかけるのを待ち、ヘルス・ワン、友ヘルスアカデミー、あるいは君島という名を耳にしたことがないか、と訊いてみた。 「ありません」  緊張しているのか、女が愛想のない顔で答えた。 「では、日下さんが親しくしている男性について知りませんか?」 「ええ。遊びのお話はしても、そうしたことは話しませんから」  若月は稲垣の写真を見せ、この男を見たことがないか、また稲垣という名を聞いたことがないか、と質したが、やはりそれにも否定的な答えしか返ってこなかった。  そこで、若月は女を帰し、 「松江出身の客ですが、その男は、いつも一人でこの店へ来ていたんでしょうか?」  と、ふたたび靖江に質問を向けた。 「何度かはお知り合いの方を連れて見えましたが、たいていはお一人でした」 「その知り合いのなかにも、この写真……稲垣という男はいない?」 「もう覚えておりませんけど、いらっしゃらなかった、と思います」 「その後、連れの客だけがこの店へ来たということはなかったわけですか?」 「はい」 「日下さんは、いつからこの店に勤めているんですか?」 「そのお客さまの見える少し前でしたから、もう三年以上になりますわね。私の次に古いんです」 「ここへ勤める前、何をしていたか、ご存じですか?」 「銀座か六本木のクラブにいたと聞きましたけど、よく分かりません」 「そうですか」  若月は他に聞いておくべきことはないかと考えながら、店内を見やった。  客は一組しかいないらしく、二人の客にホステスの全員、四人が付き、にぎやかな声をあげていた。  それを見るともなく見ながら、若月はふと、峰子はどうしたのだろう、と思った。友達が死んだので休むと電話しておきながら、緑の実家にも顔を出していない。一昨日、松江のTホテルを出て、どこへ行っているのだろうか。 〈よし、これからもう一度五反田のマンションを訪ねてみよう〉  若月はそう思い、 「お仕事中にお邪魔し、失礼しました。ありがとうございました」  靖江に礼を述べてから、小笠原を促して立ち上がった。  そのとき、さっきの愛想のない村越晴美という女が顔を上げ、視線が若月とぶつかった。  彼女は客に何やら言い、すっと腰を上げ、寄って来た。  若月は挨拶に来たのかと思い、 「さきほどは、どうも」  と頭を下げた。 「いえ」  晴美は応えてから靖江のほうへ顔を向け、「さっき、ママ、こちらは島根県の刑事さんだって言ったわよね?」 「そうよ」 「それで、ちょっと思い出したことがあったんですけど」  晴美が、若月たちのほうへ顔を戻しながら、言った。 「何でしょう?」  若月は彼女の目を見つめた。 「さっき刑事さんの言った、キミなんとかさんていう人、山陰のどこかの海で自殺した人じゃないかしら?」 「そうです。君島……君島友吉です。海じゃないですが、海と湖を結んでいる境水道というところで、先月二十六日、水死体になって上がったんです」  若月は急き込んで説明した。 「なら、その人だわ。半月ぐらい前だったから」 「日下さんにその話を聞いた?」 「そうじゃないの……いえ、半分はそうね。お店へ出る前、夕方、ユキエちゃんとラーメンを食べていると、テレビに自殺のニュースが出たんです」  ユキエというのは峰子の源氏名《げんじな》だと靖江が説明した。 「君島の?」 「ええ。何だか、被害者の会がどうとかって言ってたような気がするけど、私、上の空だったから」 「日下さんは?」 「私、初め気づかなかったんだけど、食べるのをやめて、じっとテレビを見ていたみたい。で、私が、どうしたの、って訊くと、『いまのテレビ、見た?』って」 「それで?」  若月は先を促した。 「ウン、て私は答えたわ。いまも言ったように、本当はあまり見ていなかったんだけど。そしたら、ユキエちゃん、『あの人、私、知ってるの』って。何だか青い顔をして……。  ユキエちゃんの良い人? あら、でも、島根だか鳥取だかって言ってたわよね? 私がそんなふうに言うと、 『まさか、あんなダサイ人。昔、東京にいた頃、何度か見えたお客さまよ。あ、でも、いまのお店じゃないわよ。それだけ。自殺したなんて突然テレビで言うんだもの、びっくりしちゃって……』  ユキエちゃんがそう言って、ラーメンを食べ始めたから、私も別に詳しく聞かなかったの」  それきり、晴美は忘れていたのだ、と言った。  ところが、さっき、若月に君島という名を告げられ、客のそばへ戻ると、何となく峰子に関係してその名を聞いたことがあるような気がしだした。それで、考えるともなく考えていたら、若月たちが山陰から来た刑事だという事実から、ラーメン屋の一件を思い出したのだという。  若月たちは礼を言って、「パープル」を出た。  若月の胸には、興奮とも闘志ともつかないものがふくらんでいた。  峰子には会えなかったが、それ以上の収穫があったのだった。  先月、君島が死んだとき、峰子は君島を知っていて当然である。表向きは、彼女もヘルス・ワン被害者の会の一員として、彼の責任を追及していたのだから。  しかし、彼女は、テレビで君島の死のニュースを見たとき、晴美にヘルス・ワンについては何も言わず、〈昔の客〉だと言った。  これはつまり、彼女が、「会」に入る前から君島を知っていた——靖江の言った松江出身の客が君島だった——という証拠と見てよいであろう。  赤坂見附で地下鉄に乗り、二度乗り換えて、五反田の峰子のマンションへ行った。  峰子は不在だった。  緑の実家に電話したが、そちらにも行っていないという。  峰子は、若月たちが彼女を疑い出したのに気づいていないはずである。  それなのに、どこへ行ったのだろうか。  若月たちは、彼女の行動に強い引っかかりを覚えながらも、君島と彼女が前からの知り合いだったという大きな収穫を手に、予約しておいた東京駅前のビジネスホテルへ引き上げた。  交代でシャワーを浴び、それからビールを一本だけあけ、今日判明した事実、およびそこから考えられる事柄を、次のように整理してみた。  (1) 峰子の父親がヘルス・ワンを服用していたというのは虚偽であり、彼女が「被害者の会」に入ったのは何らかの目的を秘めた行為と思われる。  (2) 峰子の部屋へ月に一、二度来て泊まって行く男は、年齢、容姿等が稲垣に似ている。稲垣だと断定はできないが、もしこの男が稲垣なら、峰子は稲垣から「被害者の会」へ遣《おく》られたスパイという可能性が濃くなる。  (3) 峰子が数年前から君島を知っていたのは確実である。  (4) 君島の死が稲垣による殺人だったとしても、テレビのニュースを見て峰子が驚いていた、という村越晴美の話から判断し、少なくともその事件に峰子は関わっていなかったらしい。  (5) 峰子が稲垣の情婦であり、しかも数年前から君島を知っていた——となると、峰子を�接点�にして二人が知り合っていた可能性が生まれる。つまり、稲垣の言った「君島とはある席で一度会っただけ」というのは嘘か。また、ヘルス・ワンの推薦文に関する二人の言い分は、君島のほうが事実を述べていたのではないか。  (6) これまでは、峰子から聞いた話を元に緑殺しについて考えてきたが、峰子に怪しい状況が生まれた今、再検討する必要が生まれた。峰子と緑の山陰行きの目的、夕方皆生ビーチホテルにかかってきた男の電話、それに対する緑の反応、峰子に対する緑の説明……などに関し、峰子は若月たちに虚偽を述べた可能性がある。  また、午前四時近くまでスナックで酒を飲み、五時半頃腹が痛いと言ってフロントに姿を見せたりしたのは、緑の死体を日御碕まで運べなかった事実を示すためのアリバイ作りではなかったか。  小笠原と話し合いながら、以上のように整理し終わったとき、若月は、事件の構図らしきものが見えてきた、と思った。  稲垣が君島を殺し、さらに峰子を利用して緑を殺した、という構図である。  不明点、矛盾点もまだ残っていたが、これで峰子に会い、彼女を厳しく追及すれば、一気に解決までもってゆけるかもしれなかった。 「今夜はぐっすり眠れそうですね」  小笠原が笑みを浮かべて、言った。 第五章 鳥取・砂丘心中     1  十一月十五日(火曜日)。  若月たちは、予定を延ばし、今日で四日間東京に滞在した。  この間、緑の葬儀に顔を出し、「ヘルス・ワン被害者の会」会員たちから事情を聞いた。  それにより、君島と緑の死によって稲垣が最も大きな「恩恵」を受けた事実が、いっそうはっきりした。  君島が死んでから「会」が腰くだけになりつつあった事実、そんななかで緑だけはあくまで稲垣の責任を追及すると言っていた事実などは、峰子の話した通りだったのである(彼女が稲垣の共犯者あるいは協力者だった場合、なぜ事実を話したかというと、それはすぐに分かることだし、隠したらかえって疑われると判断したからであろう)。  だが、こうして稲垣の殺害動機がより明確になっても、彼が二人を殺したという証拠はもとより、彼を追及するためのこれといった新しい材料は得られなかった。  九日に彼がレンタカーを借りたという事実はまだつかめなかったし、事件を解くカギを握っていると思われる峰子の行方も分からなかったからだ。  峰子は、十一日(先週の金曜日)、「パープル」のママ安藤靖江に、友達が死んだので十一、十二日と休ませて欲しいと電話してきてから、どこにも音沙汰がない。  若月たちはその後も何度か五反田の「エスカイア山ノ手」を訪ね、一度は管理人に頼んで彼女の部屋の中を見せてもらった。  しかし、これといった異状は見られなかったし、メールボックスの状態から判断して、彼女が緑と一緒に山陰へ行った九日以後、部屋へ帰った様子はなかった。  松江のTホテルで峰子に会った緑の兄に、再度尋ねても、一緒に帰ったわけではないし、自分も東京へ帰ると言っていたことしか分からない、と繰り返した。  ——葬式には必ず顔を出すような話しぶりだったんですがね。  彼はそう言い、峰子の父親がヘルス・ワンの偽の被害者だとは知らないので、彼女の行動に首をかしげるばかりだった。  安藤靖江の話の通りなら、峰子が彼女に電話したのが山陰であれ、東京であれ、十一日の段階では、十四日の月曜日から勤めに出るつもりでいた可能性が高い。  だから、この後で事情が変わったのであろう。  その事情の変化は、若月たち警察の動き以外には考えられなかった。  若月たちは十二日(土曜日)に上京し、峰子が君島と知り合いだった事実、ヘルス・ワンの偽被害者だった事実、稲垣に似た男と深い関係にあるらしい事実、を突き止めた。  若月たちがどこまでつかんだかは、もちろん警察関係者以外は知らない。  が、彼らの動きだけは、稲垣に聞けば分かる。というより、稲垣が、峰子の「正体」がばれたら危険だと思い、しばらく身を潜めて様子を見るよう、彼女に指示したのではないか。  そのへんは推測するしかないが、いかなる事情からであれ、峰子が現われないかぎり、彼女から直接事情を聞くことができない。  そこで、若月たちは、もっぱら稲垣の周辺、彼の過去を調べた。  松江出身の峰子の客が君島だった事実は、安藤靖江に君島の写真を見せ、確認している。  それなら、稲垣を洗えば、稲垣と峰子の関係、稲垣と君島のつながりを突き止められないか、と思ったのだ。  しかし、今日までのところ、峰子のマンションへ出入りしていた男が稲垣だという証拠も、彼と君島の過去の結び付きを示すものも、得られずにいたのだった。     2  若月たちがこれまでに得た稲垣庸三という男に関する知識は次のようなものである。  ——昭和××年、東京生まれ。現在四十六歳。稲垣というのは、妻の家の養子になり、改姓したもので、旧姓は小山田。両親は中学生の頃、相次いで死亡し、兄弟もいなかったため、岐阜の伯父の家に引き取られた。が、高校二年のとき伯父と喧嘩して家を飛び出し、上京。定時制高校に転入して働きながら勉強した。  成績優秀で、高校卒業後、一年間働いた後、国立S大学医学部に入学、六年間を奨学金とアルバイトで頑張り抜いた。教授の勧めで大学に残ると、めきめきと頭角を現わし、二年間のフランス留学の後、三十五歳のとき慶明大学へ助教授として迎えられ、三十九歳で教授に昇進した。  高校、大学と学費、生活費稼ぎで忙しかったせいか、親しい友人はいない模様。これといった趣味はなく、ゴルフやテニスといったスポーツもしない。医学部時代の同期生、現在の同僚たちの評は、優秀だが余裕が感じられず、親しみにくい——。  また、女性関係については誰も知らなかったし、ヘルス・ワンの推薦文についても、彼の言い分が正しいのか、君島の言い分が正しいのか分からない、という。  若月たちが、稲垣に関する新しい情報を耳にしたのは、十五日の夜だった。  今日も一日、これといった成果をあげられずにビジネスホテルへ帰り、ひとまず明日出雲へ帰ろうか、と小笠原と話し合っていたときである。  警視庁捜査共助課の岩崎刑事が、若月たちの帰る頃をみはからい、タレコミの電話があった、とホテルへ連絡してくれたのだ。 「もう二十一年も前、稲垣がまだ大学生だった頃の話らしいんで、関係ないかもしれませんがね」  と、岩崎は言った。 「二十一年前ですか……どういうお話でしょう?」  そんな昔の話では今度の事件とは無関係かもしれない——若月もそう思いながら、とにかく先を促した。 「稲垣が苦学生だったというのは、若月さんたちから伺いましたが、当時、彼は闇の高利貸しをしていたらしいんです」 「高利貸し……?」  意外な言葉に、若月は思わずオウム返しにつぶやいた。  すると、岩崎は意味が分からなかったと思ったらしく、 「ま、今風に言えば、もぐりのサラ金ですな」  と説明を加えた。 「それは分かりますが、稲垣はアルバイトでやっと暮らしていたはずなのに、資金はどうしたんでしょう?」 「そこなんです。高利貸しをしていたというだけなら、わざわざ若月さんたちにお知らせするまでもなかったんですが、彼の組んでいた人間——そっちが資金源であり、黒幕だったようなんですが——それが、島根か鳥取の人間じゃないか、というんです」  東京には、どうやら島根と鳥取の区別がつかない人間が多いらしい。  若月はそう思いながら、 「もしかしたら、それが君島……?」 「そうです。その可能性がないかと思いまして。君島も、三年前、郷里へ帰って友ヘルスアカデミーを始めるまで、東京にいたというお話でしたし」 「稲垣がもぐりの高利貸しをしていたという情報を岩崎さんのところへタレコんだ人間は、分かっているんでしょうか?」 「分かっています。名前を言いましたから。北久保稔という会社員です」 「どうして、高利貸しのことを知っていたんでしょう? 稲垣の知り合いですか?」 「いや、その人の友人が稲垣たちのやっていた闇金融から金を借り、返せなくなって夫婦心中したからだそうです」 「心中ですか……。それにしても、北久保という人は、どうして警察へ電話してきたんですかね?」 「ヘルス・ワン騒動を新聞で読み、ひょっとしたら、稲垣という男は当時金の取りたて役をしていた学生じゃないか……ずっとそんな気がしていたんだそうです。なぜかというと、二度ほど友人夫婦の家で会った顔に、新聞に載った稲垣の顔がどことなく似ていたし、友人夫婦が医学部の学生らしい、と話していたからだそうです。  一方、友人夫婦から聞いていた名は自分と同じ三文字だったような気がしたし、まさか有名大学医学部の教授になっている人が高利貸しなんて……という気持ちもあり、結局、どっちとも判断がつかずにいたんだそうです。  ところが、今週発売になった週刊誌に、稲垣の旧姓が載っていたらしいんですね。  その〈小山田〉という三文字の姓を見て、あ、間違いない、と思ったようです。  また、その週刊誌の記事は、佐江田緑の事件に加えて君島の死の疑惑にも触れてあったらしく、もし参考になれば……と電話してきたようです」 「なるほど」  若月は考えながら、応じた。  二十一年前、稲垣が高利貸しの手先をやっていたらしい——。  興味のある事実だった。  しかも、彼の裏にいた黒幕は山陰出身の男だったらしい。  それが君島かどうかは分からないが、調べてみる価値はあった。  もし二人に、表に出せないそうした結び付きがあれば、稲垣が君島に頼まれてヘルス・ワンの推薦文を書かざるをえなかった事情も納得できるし、君島がその「経緯」を簡単には明かせなかった事情も説明できる。  ただ、その通りなら、〈峰子を接点にして稲垣と君島が結び付いた〉というこれまでの推理は訂正しなければならない。  二人は、二十年以上も前に知り合っていたわけだから。  そして、その場合、稲垣と峰子、峰子と君島が別々に知り合ったとみるよりは、今度は〈君島を接点にして、つまり君島の紹介で稲垣と峰子が知り合った〉と見たほうが自然であろう。 「もし、これから、北久保氏を訪ねられるんでしたら、自宅の住所と電話番号をお知らせしますが」  若月が考えていると、岩崎が言った。 「お願いします」  と、若月は答えた。  岩崎が、神奈川県川崎市の番地と電話番号を読み上げ、若月がメモするのを待って、 「小田急線の登戸《のぼりと》で降りれば、歩いて五、六分だそうです」  若月は礼を言い、相手が切るのを待って、受話器を置いた。  時計を見ると、七時四十分。  小笠原に事情を説明すると、 「登戸なら、たいしてかかりません。新宿から小田急に乗り換えて、八時半頃には着けます」  と言った。  そこで、北久保稔に電話をかけ、在宅しているのを確かめてホテルを出た。     3  小笠原の言った通り、登戸には八時三十七、八分に着いた。  北久保は待っていて、若月たちを応接間へ通し、妻にコーヒーとケーキを運ばせた。  若月は五十歳前後の男を想像していたのだが、稲垣より三つ四つ若い四十二、三の感じだった。 「もしかしたら、私の友人夫婦を死に追いやった男と稲垣という人は別人かもしれません。ですが、同じ人間なら、許せない……また今度の殺人事件にも関係あるかもしれない、そんなふうに思い、とにかく警察にご連絡したわけです」  北久保は眼鏡の奥の目を光らせながら、そう言った。  痩せた小柄な男だが、浅黒い、引きしまった顔立ちをしていた。高利貸しの取り立て役だった男とその黒幕に、強い怒りを抱いているようだった。  若月は電話をくれた礼を述べ、早速、本題の質問に入った。 「その男が稲垣教授に似ていたのは確かでしょうか? また、男が当時、医大生で三文字の苗字だった点は、間違いないでしょうか?」 「二十年も経っていますし、写真だけですから、はっきり同一人だとは言えませんが、似ていたのは確かです。それから、苗字と身分ですが、私が直接その男に聞いたわけではありませんが、友人夫婦がそう言っていました。男は、自分の素性はほとんど話さなかったようですが、自分も同じ学生だといった話から医大生だと洩らしたようです」  北久保が答えた。 「同じ学生?」 「ああ、友人夫婦も大学生だったんです。姓は宮竹というんですが、夫が僕と同じ大学三年で、奥さんは二年生でした。友人夫婦は双方の親の猛反対を押し切り、学生結婚していたんです」 「そうでしたか……」 「ま、冷めないうちにコーヒーをどうぞ」  北久保が、若月たちの前に置かれたままになっていたコーヒーを勧めた。  そこで、若月は、砂糖とミルクを入れて掻き混ぜながら、 「取り立て役の背後にいた黒幕が山陰出身の人間だというのは、どうして知ったんでしょう?」  と、質問を継いだ。 「亡くなった僕の友人が、鳥取の倉吉出身だったからです。友人夫婦が借りた金をなかなか返せないでいるとき、取り立て役の男が、うちの社長も山陰出身なのできみたちには特別の温情をもって待っていてやっているのだ、と言ったんだそうです」 「うちの社長、と言ったわけですか?」 「そのようです」 「名前、正確な出身地などは分からない?」 「ええ。友人たちのところへ来ていたのは、もっぱら取り立て役の男一人だけで、黒幕は一度も顔を見せたことがなかったようですから」 「参考までにお訊きしたいんですが、北久保さんの友人夫婦は、どうしてそんな闇の高利貸しから金を借りたんでしょう?」 「前の年、奥さんが妊娠し、妊娠中毒か何かで入院したんです。そのとき週刊誌の広告か何かで見て、借りたようです。奥さんは一ヵ月ほどで退院したんですが、流産したりしてアルバイトもできず、しばらく返せないでいると、みるみる利子がふくらんでしまったようです。現在のサラ金のパターンと同じですね。私が友人から事情を聞いたときには、私ら貧乏学生の力では、もうどうにもならない額になっていたんです。大学卒の初任給が三万円前後の頃、たしか五十万円ほどになっていましたから」 「北久保さんは、取り立て役の男に二度ほど会っているそうですが、それは友人の家で?」 「そうです。男はしょっちゅう催促に来ていましたから。暴力的な言辞を吐いたり、乱暴したりする男ではなかったようですが、執拗でした。自分は、期限・利子に関して証文通り正当な要求をしているのだから、実家に頼るなり、相応の金の入るところで働いて返せ、そうしないとさらに借金の額がふくらみ、本当にどうにもならなくなる、と言っていたようです」 「相応の金の入るところというのは、奥さんを水商売にでも出せ、という?」 「水商売ぐらいでは追いつかない額でしたから、暗に売春を勧めていたんじゃないでしょうか」 「売春ね」 「それで、友人夫婦は、にっちもさっちもゆかなくなり、勘当同然になっていた実家を頼ることにしたんです。ですが……このへんの事情は私の推測ですが……夜行列車で倉吉へ向かったものの、どうしても実家に顔を出せなかったんですね。手前の鳥取で列車を降りたのか、倉吉まで行って引き返したのかは分かりませんが、たぶん金策に失敗したら死のうと持って行ったんでしょう、二人で砂丘の外れにある林の中で睡眠薬を飲み、手を取り合って死んでいたんです」 「そうですか」 「私は、取り立て役の男を捜し出そうと思ったんですが、医学部の学生といってもどこの大学か分かりません。それに、見つけ出したところで、友人夫婦の死に関し、法律的には男は何の咎めも受けないんですね。それで、結局、何もせずに今日まできてしまったんです」 「借金の証文から、男や黒幕は分からなかったんでしょうか?」 「警察の摘発を警戒し、証文には何とか会という名と印が押してあるだけで、責任者の氏名、所在などは分かりませんでした。  それでも、警察がどうしてもという気で取り組めば捜し出せたんでしょうが、友人夫婦の死が心中だったのは明らかでしたし、東京から遠く離れた鳥取の警察は、それほど真剣に追及しなかったんだと思います」  若月たちは東京滞在をもう一日延ばし、翌日、稲垣の学生時代の同期生たちに、再度話を聞いた。  しかし、半ば予想した通り、北久保の言った男が稲垣だったとしても、稲垣は自分の周囲の人たちに借金の取り立て役をしている話など明かしていなかったのだろう、誰も知らなかった。  君島については、よほど職場を転々としていたらしく、妻に訊いてもいつ何という会社にいたかはっきりせず、判明している数人の知り合い、元同僚や上司に当たったが、やはり無駄であった。  そこで、若月たちは、夕方警視庁の取調室を借りて稲垣を呼び、直接彼に闇金融の件を質してみた。  当然ながら、稲垣は否定した。  貸金の取り立てなどした覚えはない、と強い調子で言った。 「あんたは、宮竹という学生夫婦に、暗に売春を強要して返金を迫ったことがあっただろう。そうしたら、その若い夫婦は、鳥取砂丘で心中した。違うかね?」 「知らん。僕は宮竹なんていう人は知らん、心中なんて知らん。僕には関係ない」  こんな調子だった。  だが、その強い否定の言葉とは裏腹に、稲垣の表情は青ざめ、目に脅えの色が浮かんでいた。  最初に自宅で君島殺しと緑殺しについて追及したとき、その後、大学を訪ねて峰子との関係について追及したときは、多少余裕が感じられた。それが、今は消えていた。  若月たちは、別室に北久保も呼んであった。  尋問中、別室から、稲垣を見てもらった。  北久保は、二十一年前、友人の家で顔を合わせた借金の取り立て役に似ている、と証言した。 「直接会って、話してみてもいいですよ」  北久保はそう申し出たが、若月は必要ならお願いすると言い、彼の証言を稲垣にぶつけた。 「そ、そんな人は知らん」  稲垣が前以上に強い不安の色を目に浮かべて、声を荒らげた。 「じゃ、会うかね。向こうは、あんたと対決してもいい、と言ってくれているんだがね」 「…………」 「どうする?」 「も、もちろん、僕だって会ってもいい」  答えたが、稲垣の額には脂汗が滲《にじ》んでいた。  若月は、内心、北久保と稲垣を対決させる気はなかった。  させたところで、稲垣は知らないと言い張り、結果は同じだろうと考えていたからだ。  それよりは、彼に恐怖心を与えつづけておいたほうがよい。爆弾の実物を見せてしまうより、実物を見せないでその脅威を宣伝したほうが、想像のなかでより不安がふくらむ場合が少なくない。 「ま、今日のところは、対決だけは見逃してやる。証人は、あんたが金の取り立てをしていた相手について、亡くなった友人夫婦以外にも心あたりがあるらしいから、その人を捜し出し、一緒にあんたに会ってもらっても遅くはない」 「…………」 「そのとき、今日言った言葉を取り消しても遅いからな」 「ま、待ってくれ。ぼ、僕の過去と、今度の事件とどういう関係があるんだ?」  見えない爆弾が効果を表わしたらしく、稲垣が言った。「人間、誰だって触れられたくない過去が一つや二つはあるだろう。それを、なぜ二十年以上も経ってから、掘り返されなきゃいかんのかね」 「ということは、闇金融の手先になっていた事実は認めるんだな」 「認めたわけじゃない。一般論で言っているんだ」 「一般論で言うんなら、我々もそんなことはしない。今度の事件と密接に関係しているかもしれないと思うから、あんたに事実を訊いている。それで、関係ないとなったら、もちろん、我々はそれを世間に公表したりはしない。あんたの秘密は守る」 「…………」 「もし、事件に関係がないというのなら、明かしてもいいだろう」  若月は促した。 「待ってくれ」  稲垣が言った。 「待つ? いつまで?」 「一週間……」 「そんなに待てない」 「なら、三日でいい」 「三日待てば、事実を話すんだな」 「話す」  少なくとも、闇金融の件は事実上認めたと判断してよさそうだった。  そこで、若月は、「それなら待とう」と言ってから、 「ただし、条件が一つある」 「条件?」 「闇金融の黒幕が君島だったかどうかだけ、今、教えてくれ」 「そ、それは教えられない」 「なぜ?」 「三日後にその件も含めて、事実をすべて話す」 「すべて、ということは、今度の事件についてもだな」  稲垣がうなずいた。 「分かった。それじゃ、三日後、十九日土曜日の午後五時まで待つ」  若月は了解した。  そのときまで、彼も小笠原とともに東京にとどまるつもりだった。  稲垣を帰すと、若月は警視庁の岩崎に相談し、稲垣の動きを見張ってくれるよう要請した。  逃亡を警戒したのである。     4  稲垣が東京駅から寝台特急「出雲1号」に乗り込んだのは、翌十七日(木曜日)の夕方六時半過ぎだった。  出雲1号は、東京駅を六時五十分に出て、鳥取には翌朝五時三十五分、米子には七時七分、松江には七時四十四分、出雲市には八時十七分、そして終点浜田には九時五十七分に着く予定になっている。(時刻表参照)  稲垣を見張っていた警視庁の刑事たちから岩崎を通じて連絡を受け、若月たちはすぐ東京駅で彼らと待ち合わせ、監視を引き継いだ。  出雲1号は、機関車と荷物車を除くと十一両編成である。先頭一号車がA個室寝台車で、八号車が食堂、あとはすべて客車二段式のB寝台車だ。  稲垣の乗り込んだのは、先頭の個室寝台車両であった。  若月たちには、稲垣がどこへ行き、何をしようとしているのか、分からなかった。が、コートを着てボストンバッグを持った恰好、寝台特急「出雲」の個室に乗り込んだ事実から、山陰のどこかへ向かおうとしているのだけは、確実に思えた。  となれば、若月たちもホームにいるわけにはゆかない。  車掌に事情を話し、取り敢えず一号車のすぐ後ろの二号車にベッドを二つ確保してもらった。  観光シーズンでないため、B寝台にはまだ空きがあったのである。  小笠原が溝口に、〈稲垣が山陰のほうへ向かう模様だ〉と知らせに行き、若月が稲垣の動きを見張っているとき、岩崎が駈けつけてくれた。 「稲垣の妻に電話して訊いたんですが、彼は『松江へ行き、人に会ってくる』と言ったそうです」  岩崎が伝えた。 「松江ですか……。で、その相手については何も言わなかったんでしょうか?」 「言わなかったようです。妻が心配して尋ねても、今は言えないが心配するな、明後日に帰ったら、そのときはお前にもすべて話す……そんなふうにしか答えなかったというんです」 「峰子が松江に隠れているのかもしれませんね」 「私もそう思ったんですが……ただ、そうすると、何をしに行くんでしょう? 峰子と話し合うなら、東京へ呼び戻せばいいと思うんですが」 「そうですね」 「もしかしたら、峰子の口を塞《ふさ》ぎに行くのでは……?」 「なるほど」 「あるいは、峰子とまったく関係ない人間……たとえば君島の関係者に会いに行く、といった可能性も考えられますが」  そうかもしれない、と若月も思った。  しかし、一方で、今更、峰子以外の誰に、何のために会う必要があるのか、見当がつかなかった。  二人が乗車口の近くで話していると、発車五分前になり、小笠原が戻ってきた。  彼が乗り込み、岩崎が降りた。  岩崎が会釈《えしやく》して去ると、定刻通りの六時五十分、ドアが閉まり、列車は動き出した。  この後、横浜、熱海、沼津、静岡、浜松、名古屋と停まり、名古屋を深夜に近い十一時二十四分に出てからは、途中京都で東海道本線から山陰本線に入り、翌午前二時五十九分、福知山に着くまでノンストップだった。  若月たちは車両内へ入った。彼らのベッドは三番の上、下段である。四番のベッドとは向き合いの席だが、途中で乗ってくるのか、まだ上下段ともいなかった。  横浜で停車する前、一号車に乗っている車掌——国鉄がJRに改組されてしばらくして車掌長という呼称はなくなったが、三人乗車勤務しているうちのキャップらしい——がやって来て、検札しながら、 「さきほどの件ですが……」  と、周囲に聞こえないよう、声をおとした。  稲垣の個室番号と切符の行き先を調べてくれるよう、頼んでおいたのである。 「お席は十二号室、所持されている乗車券の行き先は松江でした」  さらに彼は、個室は十四あり、十二号室は後ろ(若月たちのいる二号車に近いほう)から三番目だと説明した。 「彼の女房の話と一致していますし、行き先は松江とみて間違いありませんね」  車掌が去ると、小笠原が言った。  若月は、岩崎から聞いた話を、もちろん伝えてあったのだ。  若月は考えながらうなずいた。  岩崎と話したときから、ずっと稲垣の松江行きの目的が気になっていたのだった。  稲垣は、いったい誰に会いに行くのだろうか。峰子だろうか、それとも、他の誰かだろうか。その人間に会い、何をしようというのだろうか。  考えていると、列車が横浜駅のホームにすべり込んだので、若月は小笠原を席に残し、デッキに行った。  ホームに降り、一号車から降りる人間がいないかどうか、前に注意を向けた。  稲垣が松江行きの切符を持っていても、途中下車しないという保証はない。  彼が、もし警察の監視に気づいていて、逃げようとしていたとしたら、松江までの切符は擬装であろう。  一号車に乗り込んだ人間はいたが、降りた人間はいなかった。  若月はドアが閉まるのを待って、席へ戻った。  稲垣の車両は一番前なので、若月たちがここにいるかぎり、車内を移動して後ろの車両から降りようとしても分かる。  だから、停車したとき、前の乗・降車口に気をつけてさえいればいいのだった。  十一時二十一分、列車は名古屋に着いた。  すでに、ほとんどの乗客はカーテンを引き、鼾《いびき》をたてている者もいた。  これまで、稲垣は通路を後ろへ移動もしなければ、下車もしなかった。  車掌に調べてもらったところ、ドアの窓にはカーテンがかかり、静かなので、もう寝ているのではないか、という。  名古屋でも稲垣は降りなかった。  そこで、若月たちも、何かあったら起こしてくれるよう車掌に頼み、しばらく寝《やす》むことにした。  これからおよそ三時間半、午前三時(正確には二時五十九分)まで、運転停車する駅はあっても列車のドアは開かない。  若月たちの向かいのベッドは、上段は空いたままだったが、下段は静岡で乗ってきた若い男がすでに明かりを消していた。  小笠原が上のベッドに上るのを待って、若月は下のベッドをカーテンで囲んだ。いつでも飛び出せるよう、上着を脱いだだけで着替えはせず、シーツを敷いて横になった。  初め、通路を人が通るたびにカーテンを細く開けて気にしていたが、疲れていたのだろう、やがて眠りに引き込まれていった。  翌朝、若月が目を覚ましたのは、四時半過ぎ、列車が城崎と浜坂の間を走っているときだった。  時計を見てベッドを降り、通路のブラインドを少し上げてみたが、外はまだ暗い。  眠っている間に、福知山、豊岡、城崎と停車したらしいが、車掌は起こしにこなかったし、何事もなかったのだろう。  ということは、稲垣は切符通り、松江まで行く可能性が強まったのだった。  小笠原はぐっすり眠っているようなので、若月はそのままにして洗面所へ行き、顔を洗った。  眠気がとれると、意識にも体にも緊張が戻った。  列車の松江到着は七時四十四分。  それから、稲垣がどこへ行き、誰と会おうとも、今日中に事件の決着がつくのではないか——若月はそんな気がした。     5  鳥取砂丘は雄大だった。  広い。  砂丘の向こう、日本海のかなたに沈む夕日も美しかった。  だが、東西十六キロ、南北二キロ、面積千五百ヘクタールというガイドブックの記述から想像していたのよりは、小さくてつまらなかった。  これが、末永利美と一ノ瀬真美が鳥取温泉のホテルに帰って話し合った感想の結論である。  こうした結論を出したのは、二人の誤解というか、ガイドブックの不親切さというか……そんなところに起因していた。  誤解というのは、彼女たちは、砂丘について、テレビで見る砂漠のようなイメージを抱いていた点である。  いかに日本一の砂丘でも、中央アジアに広がる砂漠と比べられたのでは、大きな湖と水たまりのようなものだろう。  それから、ガイドブックの不親切というのは、東西十六キロといっても、砂地がむきだしの場所は精々南北一〜二キロ、東西四、五キロにすぎず、あとはだいたい松林や果樹園、ラッキョウ畑になっている、ときちんと説明してない点である。  いや、書いてはある。だから、前に鳥取砂丘を見たことのある者なら、記述に間違いのないのは分かる。だが、末永利美と一ノ瀬真美のように、初めて訪れようという者には、十六キロ、延々むきだしの砂地の丘が海に沿ってつづいているようなイメージを与えかねない。  それはともかく、利美と真美は、風紋を見てみたかった。  彼女たちは風紋が見たくて、旅行先に鳥取を選んだとも言える。  風紋というのは、砂が風に吹かれて波のような模様になったものである。  これを見るには、当然、誰も砂の上を歩かないうちに行かなければならない。  ところが、彼女たちが昨日鳥取に着いたのは三時過ぎだったため、もう砂は人々の足跡で踏み荒らされた後だった。  昨日は、レストハウスなどが沢山並んだ砂丘東口のほうへ行ったが、今日は人の少ない西口へ行ってみることにした。  鳥取駅に近い繁華街にある鳥取温泉のホテルを、二人がレンタカーで出たのは、十八日(金曜日)の朝八時前だった。  レストランの朝食券による朝食は、帰ってからとることにしたのである。  二人はともに二十歳。福岡市にある女子短大へ通っている。  ハワイとグアムと香港へは行ったことがあるが、山陰は初めて。なかなか決まらなかった就職がようやく内定したのを記念し、二人で一昨日山陰へ来たのだった。  朝八時二十二分に博多を出る特急「いそかぜ」で出雲市まで来て、あとは大社、松江、大山とレンタカーを交代で運転しながら駈け足で周り、昨日鳥取へ着いたのである。  鳥取の街は空《す》いていた。  これは朝だからではない。  昨日も同じだったのだ。  彼女たちが山陰へ来て、一番印象に残ったのは風景でも料理でもなく、道路が空いているという点だったかもしれない。松江周辺の幹線道路は朝晩かなり混むという情報を仕入れてきたが、幸い彼女たちは渋滞らしい渋滞に一度も巻き込まれず、ドライブは快適そのものだった。  鳥取駅前から十五分、砂丘トンネルを抜けたところが、「こどもの国」の入口にもなっている砂丘西口のバス停である。  昨日行った東口は、もう三、四分走った先だ。  丘の上のレストハウスと砂丘を結ぶリフトまである東口に比べると、西口は何もないと言ってもいいぐらいだ。  当然、こちらのほうがより自然を残していて、天然記念物になっているという。  今朝運転しているのは、利美だった。  彼女はバス通りから左へ入り、さらに右に曲って駐車場へ降りた。  かなり広い駐車場に駐まっているのは、一台の白い乗用車だけ。  利美は、その車から離れた場所に、乗ってきた小型のレンタカーを停めた。  真美と左右に別れて降り、時計を見ると、八時十二分。  この様子なら、きっと綺麗な風紋を見られるだろう。  そう思い、真美と話しながら、駐まっていた白い車の横を通り、砂丘へ入って行こうとしたときだった。 「利美」  不意に、真美が声の調子をおとし、囁くように言った。 「なに」  利美は足を止めて、真美の顔を見た。 「車の中、見た?」 「……?」  利美は二、三メートル後ろになった車を振り返った。 「中に人がいたわよ」  真美がなおも小声で言う。「二人。男の人と女の人みたい」 「見えないわ」 「シートを倒して寝ているのよ。それも、何だか変な恰好で」 「変な恰好?」 「女の人に男の人がかぶさって」 「いやだ、真美。それなら、別に変な恰好じゃないじゃない」 「ううん、抱き合って寝ているっていう感じでもないの」  真美は真剣な様子だった。大きく開いた目に、怖ろしげな色が浮かんでいた。 「じゃ、もう一度見てみる?」 「だめよ」 「そうよね、もし気づかれたら大変だものね」 「でも……」 「いいじゃない、どんな恰好して寝ていたって。行こう?」 「うん、でも……」 「どっちにするの?」  利美はわずかに声を高めた。  利美と真美はいつもこんなふうだった。真美は優柔不断で、なかなか物事が決められない。それに対し、利美は思いきりがよかった。二人合わせるとちょうど良くなり、もしかしたら、それが二人を引きつけ合っている理由かもしれなかった。  真美がぐずぐずしているので、利美は一人で足を戻し、横を通り抜けるようなふりをして車の中を覗いた。  運転席と助手席のシートが倒され、男女が寝ていた。  助手席に仰向けになった女性の上に、運転席の男性が体をよじるようにして覆い被さっている。  真美の言うように、確かに抱き合って寝ているにしては、不自然な恰好だった。  それに、朝日が当たっているというのに、ピクリとも動かない。  利美はもう一度……今度は前よりゆっくりと覗き込みながら、真美の傍らへ戻った。 「変でしょう?」  真美が声をひそめて言った。 「うん」  利美はうなずいた。 「どうする?」 「どうするって、窓でも叩いて起こしてみるの?」 「そんなの、恐いわ。ただ眠っているだけだったら怒鳴られちゃうもの」 「だったら、このまま行くしかないじゃない。行こう、行こう」  利美が結論を出し、歩き出すと、真美も仕方なさそうについてきた。  二人は砂丘へ入り、大すりばちの底へ降り、砂山へ登った。  初めのうちこそ、車の男女のことが気になり、互いに黙りがちだったが、砂に足を取られ、キャーキャー言いながら海の四、五百メートル手前まで歩く頃には、すっかりそんなことは忘れていた。  風紋は、昇って間もない太陽の光にかすかな陰影を刻み、広がっていた。  その綺麗な砂のさざなみの上に、自分たちの足跡を最初に印すのは気持ちが良く、一方で何だかもったいないような感じもした。  二人は、前景に自分の足跡だけがついた風紋を、背景に朝陽を浴びた真っ青な海を入れ、互いに写真を撮り合って、引き返した。  駐車場が近づくに従い、二人ともさっきの男女を思い出し、段々、言葉少なになっていった。 「もういないわよ」  利美は言ったが、本心はまだいるような気がしていた。  二十分ほどで、駐車場へ戻った。  時刻は九時三、四分。  予想通りというか、予想に反してというか、白い車はまだあった。  自分たちの赤いレンタカーと、依然、二台だけである。  二人は顔を見合わせた。  レンタカーへ戻るようなふりをして、また中を覗いた。  二人の男女は、さっきとまったく同じ恰好のまま、倒したシートに横たわっていた。     6  これより一時間二十分前、寝台特急「出雲1号」は松江に到着しようとしていた。  若月は小笠原とともに降りる用意をし、一車両移動して、三号車のデッキに立った。  若月が目を覚ました四時半以後、列車は浜坂、鳥取、倉吉、米子、安来と停車してきたが、そのどこでも稲垣は降りなかった。  これで、彼が松江で降りるのは、ほとんど確実になった。  本部の溝口たちが一時間以上前に松江駅へ来て待機していることは、車掌室から無線で連絡をとってもらい、分かっている。  今頃は、捜査員たちが何人も駅のホームや改札口に配されているであろう。  だから、若月たちは、稲垣に気づかれないように下車しさえすればいいのである。  七時四十四分、列車は松江駅のホームにすべり込んで停まった。  降りる者が多かった。  若月たちは彼らに紛れて四、五番目に降りた。すぐに物陰に隠れ、一号車のほうを見やった。  だが、降りた人間がみな列車から離れ出しても、稲垣の姿はない。  松江駅の停車時間は一分。 〈どうしたのか、発車してしまう〉  若月がそう思い、焦っていると、車掌——東京から乗ってきた他の二人の車掌は米子で別の車掌と交代し、キャップの彼だけ出雲市まで行くのだと聞いていた——が慌《あわ》てて降りてきて、A個室寝台十二号室の客は下車した様子がない、という。  若月たちは、彼につづいてふたたび列車に乗り込んだ。  ドアが閉まり、列車は走り出した。  車掌と一緒に一号車の手前まで行った。彼に、十二号室をノックして、中に人がいるかどうか調べてもらった。  彼はすぐに戻ってきた。 「いません」  と、緊張した顔で報告した。「ドアのカーテンが引かれているので、ずっと中にいると思っていたんですが」 「どこで降りたんでしょう?」 「さあ」  それは、若月のほうが分かっていた。  福知山、豊岡、城崎。  この三つの駅のいずれかである。  他に考えられない。  稲垣は、警察の尾行に気づいていたのだろう。そこで、若月たちが眠っている間に、一号車から後ろの車両へ移動し、自分の顔を知っている車掌に気づかれないように降りたにちがいない。  若月は車掌に頼み、松江駅と連絡を取った。  やはり、稲垣は下車していなかった。  八時十七分、列車は出雲市駅に着いた。  ここで食堂車を含む後ろ四両を切り離すため、八分間の停車である。  稲垣のいない列車に乗っていてもどうしようもないので、若月たちは降り、迎えに来ていたパトカーで大社の捜査本部へ帰った。  若月たちのもとに鳥取県警から連絡が入ったのは、それから一時間半ほどした十時近くだった。  鳥取砂丘西口の駐車場に駐められた車の中で、二人の男女が死んでいた、というのである。  砂丘の風紋を見に行った女性観光客二人が不審に思い、警察に届け出たため、見つかったらしい。  男は、レンタカーの件で島根県警から調査依頼されていた稲垣庸三(四十六歳)、女は男とどういう関係にあるのか分からないが、所持していた免許証から、日下峰子(二十九歳)と判明した——。 第六章 松江・反転した推理     1  二十日(日曜日)の夜七時過ぎ、壮が札幌土産の筋子を持って、美緒の家に来た。  金、土と北海道大学で、若手数学者だけのシンポジウムがあったのだ。  シンポジウムは昨日の午後終わったが、その後、慶明大学から参加した助手や大学院生たちと定山渓温泉へ行き、一晩泊まってきたのである。  壮が来たとき、精一は稲垣庸三の葬儀へ行き、まだ帰っていなかった。  葬儀といっても、殺人容疑者として報道されたため、家族と少数の親類、知人だけのささやかなものらしい。  美緒と章子は夕食の準備をしていたのを中断し、居間で壮と茶を飲んだ。 「僕らの間でも、旅行中、稲垣先生の話ばかりでした」  美緒が事件の話をすると、壮が言った。 「北海道の新聞にも載ったの?」  美緒は訊いた。 「ええ。全国版の社会面にかなり大きく載りましたし、テレビのニュースにも稲垣先生の写真が出たようです」 「大学教授の連続殺人事件、そして無理心中……となると、全国的なニュースなのね」 「一昨日《おととい》、夕刊のニュースを見たときは、本当にびっくりしたわ」  章子がそのときの驚きを表わすように、目を丸くして言った。  それは、美緒も同様である。   ≪殺人事件の容疑者、医学部教授、鳥取砂丘で愛人と無理心中か?≫    こうした見出しの夕刊社会面のトップ記事を目にし、それが稲垣のことだと知ったときの驚きは、章子に負けないだろう。 「それにしても、佐江田さんという方と、君島さんという方を殺したのは、本当に稲垣先生だったのかしら?」  章子が首をかしげた。 「新聞で読むかぎり、間違いなさそうね。君島さんという方については、ずっと自殺と考えられていたらしいけど……。だいたい、警察もマスコミも、よほど自信がなければ、いくら容疑者としてだって、亡くなった人の名を出さないわ」  美緒は言った。 「ですが、稲垣先生の犯行を直接証明するものは何もないようですね」  壮が言った。 「あなたは、先生が犯人じゃないと思うわけ?」 「僕にも分かりません」 「私だって、もちろん分からないけど……松江までの切符を買って『出雲1号』に乗り、真夜中に途中下車したのだって、犯人でなかったら、そんなことするかしら?」 「そうですね」 「でも、稲垣先生が犯人なら、なぜ一人で自殺しなかったのかしら? なぜ日下さんという方の首を絞めて殺してから、毒を飲んだのかしら?」  章子が言った。  報道によると、鳥取砂丘の駐車場で死んでいた二人のうち、日下峰子は扼殺され、稲垣は青酸カリを飲んでいたのだという。 「一人で死ぬのが恐かったのよ……きっと。といって、日下さんという人は一緒に死んでくれそうになかったので、無理やり道連れにしたんじゃないかしら」 「その通りなら、稲垣先生という方は、非常に身勝手な方ね」 「北海道の新聞に載ったといっても、詳しい続報はなかったんですが、昔、稲垣先生が高利貸しの取り立てをしていた、というのは本当でしょうか?」  壮が訊いた。 「本当らしいわ」 「では、そのとき、借金を返せなくて、今度と同じ鳥取砂丘で心中した若い学生夫婦がいた、というのも?」 「ええ。そのときのことが頭にあったので、先生は鳥取砂丘の駐車場へ行って死んでいたんじゃないかしら? 警察の見方も、コメントを求められた犯罪学者や心理学者も、そんなふうに言っていたわ」 「それは、少しおかしいですね」 「おかしい?」 「一見もっともらしいですが、自分にとって良い思い出の地ならともかく、わざわざ嫌な記憶のある地を死に場所として選ぶでしょうか?」 「心中しようと考えたとき、かつての記憶から、ほとんど無意識のうちに鳥取砂丘を連想したんじゃないか、で、そこへ行ったんじゃないか……っていうんだけど」 「そういう場合もありうるかもしれませんが、でも、それは、稲垣先生を犯人と決めての論じゃありませんか?」 「そう言われてみれば、そうかもね」 「僕だって、稲垣先生が犯人だと分かっていて、その行動の意味について感想を求められたら、たぶんそう答えたと思います。つまり、コメントをつけた人たちは、みんな、稲垣先生を犯人とする警察の見方を前提にして、いろいろ言っているんじゃありませんか。白紙でものを考えていないんじゃありませんか」 「白紙で考えたらどうなるの?」 「確かに、稲垣先生を犯人とする材料は多いかもしれません。ですが、いま言った、鳥取砂丘で亡くなっていた点など、先生が犯人だったら、おかしな事実もいくつかあるような気がします。先生が生きているならまだしも、釈明のできない状態になっているのに、それらが矛盾なく説明できないうちに、先生を犯人だと決めつけていいのか、という疑問を感じます」 「先生が犯人じゃないかもしれない——というわけね」 「初めに言ったように、僕にも分かりません。ですが、少なくともまだその可能性が残されているんじゃないでしょうか」 「そうよ、私もそう思うわ」  章子が急に明るい声を出した。  この母親、美緒が時々|妬《や》くぐらい、娘の婚約者の頭脳、判断を信用しているのだ。  二対一では形勢が不利なようだった。 「それは、私だって、稲垣先生を殺人犯人だなんて思いたくないけど……」  美緒はつぶやきながら、父が早く帰ってくればいいのに、と思った。  きっと、葬儀の席で何か新しい情報を仕入れてくるだろう。  もっとも、それで、二対二になるという保証はなかったが。  美緒がそんなふうに思っていると、章子が時計を見て、夕食の準備を済ませてしまうために立ち上がった。  そのとき、チャイムが鳴った。     2  章子がインターホンの受話器を取って答え、玄関へ出て行った。  精一が帰ってきたのである。  複数の連れがいる様子だった。  応対している章子の、何となく戸惑っている感じが伝わってきた。  悔みの挨拶をしている。  ということは、稲垣に関係のある人間だろうか。 「黒江君は来ているかね?」  という精一の声が聞こえた。 「はい」と章子。 「なら、よかった」 「誰だか、見てくるわね」  美緒は壮に言い、居間を出て行った。  高校一年生ぐらいの背のひょろりとした少年と、五十歳前後のでっぷりした男が靴を脱いでいた。 「ああ、こちら、娘の美緒です。黒江君と結婚することになっております」  精一が美緒を認めて二人に紹介し、二人を稲垣の長男と義兄だと言った。  美緒は、こういう場合どう挨拶していいか分からなかったので、 「いらっしゃいませ」  とだけ言って頭を下げた。 「美緒、稲垣さんの件で新しい事実が分かったんだ。それで、黒江君に相談したいと言われるので、お連れした」  精一が言った。  教授の彼も、弟子の異才ぶりを認めているのである。  壮が警察に協力して何度も難事件を解決したことは、いつの間にかかなり広く知られるようになっていた。そのため、彼を私立探偵だと思い込んだ人間が、時々、行方不明人捜しや事件調査などを依頼してくる。  もちろん、壮はほとんど断わっているが、彼の好奇心を刺激するような謎がある場合は別だった。  壮は、金などいくら積まれたって眉一つ動かさない。だが、彼の�謎解き本能�を刺激するような事柄なら、自腹を切ってだって動く。  人間、活動する動機、働く動機は、金のため、情のため、名誉のため、異性を獲得するため……と、人によって様々だろう。もちろん、たいがい一つではなく、それらの複合である。とはいっても、人によって最大の動機がある。それが、壮という人間の場合、好奇心だった。山があるから山に登る登山家のように、彼の場合、目の前に謎があればそれを解こうとしないではいられない一種の�習性�があるのだ。  精一の言った「新事実」が、果たして壮の好奇心を刺激するかどうかは分からない。  だが、美緒は、精一が稲垣の長男と義兄を連れてきたという事実から、 〈これは壮という魚は食いつくな〉  と、直感した。  二人が相談に来たということは、稲垣犯人説に疑問を挟む事実が判明したにちがいないからだ。  精一が二人を居間へ招じ入れ、壮を紹介している間に、美緒と章子は茶をいれてきた。  稲垣の義兄は、山崎という姓だった。神奈川県の平塚で、個人医院を開業しているらしい。事情があって彼は稲垣家から山崎家へ養子にゆき、彼の妹路子が死んだ庸三(旧姓・小山田)と結婚し、稲垣を名乗っているのだという。  山崎によると、新事実というのは、山崎が妹の路子に話し、彼女が精一に話したものだった。彼女は、夫と同じ大学に勤める壮の噂を聞いていて、壮に調査を頼めないか、と精一に相談してきたのである。それで、精一が、「だったら、ちょうど今夜来るから」と言い、山崎と稲垣の長男を連れてきたのだという。  こうした経緯を話すと、山崎はさっそく本題に入った。 「新事実といっても、私が庸三君から聞いた言葉なんです。ですから、私も、今日までそれほど重大な意味があろうとは考えていなかったんです。ところが、妹に話すと、目を光らせ始めましてね」  彼が話し出した。 「それを聞いたのは、庸三君が亡くなる前日ですから、先週の木曜日十七日です。時間は午後三時頃——彼が寝台特急『出雲1号』に乗る三、四時間前——でした。週刊誌に載り、庸三君がかなり疑われているようでしたので、彼の研究室へ電話をかけ、本当のところどうなんだ、と訊いたんです。  その前、ヘルス・ワンの推薦文の件で新聞に載ったときも、何度か電話で話していたんですが、彼はそのたびに自分は潔白だと言っていました。私はその言葉を信じ、彼を信じていたんですが、なにしろ今度は殺人容疑ですからね、前と次元が違います。それで私は、かなり突っ込んだんです」  山崎が言葉を切り、唇を湿らすように茶を一口飲んだ。  母親の代理で来たのだろう、稲垣の長男は青ざめた顔をして、ただじっと座っていた。  傍らの壮は……と美緒が横顔を窺《うかが》うと、相棒はいつもと特に変わった様子もなく、静かに山崎の話のつづきを待っている。 「庸三君は、自分を信じて欲しい、と繰り返しました」  山崎がふたたび話し出した。「じゃ、妻や子供たちを裏切るようなことは、絶対にしていないというんだな——私はさらに念を押しました。やっていない、義兄《にい》さんにもいろいろ迷惑をかけて済まない、と彼は言いました。しかし、これだけ騒がれてしまい、どうするつもりだ、と私は訊きました。すると、庸三君が、実はこれから松江へ行き、明日帰ってくる、そうしたらすべての事情を明らかにする、そう答えたんです」 「稲垣さんは、奥さんにも、〈松江である人に会ってくる〉と言っているんだが、この次に山崎さんに言った言葉が微妙に違うんだ」  精一が言った。 「そうなんです。初めに申し上げたように、妹に言われるまで、私も気にとめていなかったんですが、松江へ何しに行くのかと私がなおも突っ込むと、庸三君はこう言ったんです」  山崎が一度言葉を切ってから、「ある男に会ってくる。そうすれば、何もかもはっきりさせられる。明後日の土曜日、刑事にすべて話すことになっているので、それまで待って欲しい——」  どうやら、新事実とは、 〈ある男に会ってくる〉  という稲垣の言葉らしかった。 「つまり、稲垣さんが会いに行ったのは、日下峰子という女の人じゃなかった、ということだよ」  精一が説明を加えた。 「失礼ですが、稲垣先生が山崎さんに嘘をつかれた可能性はないんでしょうか?」  美緒は訊いた。 「奥さんに松江へ行ってくると言っただけなら、これは嘘の可能性がないでもない。警察が奥さんに問い合わせ、行き先を聞き出すおそれがあったわけだから。  だが、山崎さんにまで、どうしてそんな嘘をつく必要があったのかね?」  精一が言った。 「山崎さんと奥さんが電話で話され、それが警察に伝わったら、と考えられたとしたら……?」 「それでも、奥さんに対してと同じように、松江へ行ってある人に会ってくる、と言えば済んだはずだ。ある〈男〉と限定する必要はない」  美緒とて、稲垣が嘘をついたと思っているわけではなかった。  たぶん、彼は事実を言ったのであろう。  ただ、嘘の可能性があるかぎり、その可能性を潰しておく必要があった。 「黒江君、きみはどう思うかね?」  精一が壮に問いかけた。 「先生の言われる通りだと僕も思います。もし、稲垣先生が日下峰子という女性と落ち合う事実をできるだけ知られないようにするためでしたら、奥さんに対してこそ、男と会ってくると強調したはずですから」  壮が答えた。「たぶん、稲垣先生は、〈ある人〉も〈ある男〉も、意識せず、同じ意味でつかわれたんだと思います。つまり、先生の頭の中では、〈ある人〉と言っているときも、ある男の顔が浮かんでいたんだと思います。それで、たまたま奥さんに対しては〈ある人〉と言われ、山崎さんには〈ある男〉と言われたんじゃないでしょうか」 「なるほど」  山崎がうなずいた。  感心したような表情だった。 「でしたら、これで、稲垣先生は殺人犯人なんかじゃないということですわね。男の人に会いに行かれたのに、途中で女の人と心中などされるわけがないんですから」  章子が言い、稲垣の長男の顔をチラッと窺った。  美緒も誘われて見ると、少年の顔には、わずかに赤みが差していた。 「正直に申し上げて、まだそうは言いきれないと思います」  壮が言った。 「先生が会いに行かれた〈松江の男〉が犯人じゃないの? その男が先生に罪を被《かぶ》せ、先生も殺害したんじゃないの?」  美緒は言った。 「もちろん、その可能性が高いと思いますが、まだ断定はできません。とにかく、その男を突き止めなければなりません」  壮がそこで一度言葉を切って、顔を山崎のほうへ向け、 「で、この稲垣先生の言葉は、島根県警あるいは鳥取県警へは知らせたんでしょうか?」 「いえ、知らせていません。妹は、警察を恨むというか……信用していませんから。それで、黒江さんに……」  山崎が答えた。 「そうですか」 「私も、庸三君の無実を証明してくれとは申しません。とにかく、事実を明らかにしていただきたいんです。黒江さんのお仕事でないのは重々承知しておりますが、お願いできるでしょうか?」 「僕のやれるかぎりは……。ただ、僕は警察官じゃありませんので、一人で動くというわけにはゆかないんです」 「そうだな。なら、管轄は違うが、勝部長さんに相談してみたらどうかね」  精一が言った。  勝俊作は、警視庁捜査一課殺人班の部長刑事だった。年齢は五十三、四歳。小柄で猫背で痩せていて、見た目は冴えないが、信用のできる優秀な捜査官である。  壮の関係した警視庁関係の事件は、いつも、壮が頭、勝が手足になって、解決に導いてきた。もちろん、頭だけでも、手足だけでも、事件は解決できなかったはずである。そして、勝は、自分の息子ほども歳の違う壮の手足になるという役割を、喜んで受け容《い》れてきたのだった。 「僕もそう考えていました」  壮が答えた。「勝部長さんに相談し、それから、島根県警と鳥取県警の担当刑事さんに会ってみます。そして、稲垣先生が会いに行かれたと思われる松江の男を捜してくれるよう、働きかけてみます。もしかしたら、捜査を担当している刑事さんのなかにも、稲垣先生を犯人とする見方に納得していない人がいるかもしれませんから」  壮の言葉を聞き、美緒は、〈稲垣は無実だな〉と思った。その強い感触を得たからこそ、また、稲垣が犯人として死んだ事件の裏に強い謎を感じたからこそ、壮は動く気になったのだろう。  美緒は、興奮とも期待ともつかないざわめきが胸にひろがるのを覚えた。  壮と勝——。  この二人が組めば、いずれ、きっと真相が明らかになるにちがいない。     3  出雲北署の捜査本部は、君島友吉、佐江田緑、日下峰子の三人を殺したのは稲垣庸三に間違いない、という見方にほぼ固まりつつあった。  君島と峰子の死体が発見されたのは鳥取県内のため、両事件に関しては正式には島根県警の担当ではない。  だから、警察庁によって連続した事件として位置づけられた後、何度か両県警の会議がもたれ、合同捜査というかたちで捜査が進められた。  とはいっても、実質は、先に捜査に着手していた島根県警がイニシアチブを取っていたのである。  そうした警察の縄張り争いはさておき、捜査本部のなかで、若月は少数派になっていた。彼も、稲垣が犯人であるのは八割がた間違いないだろう、と考えている。だが、二割は疑問が残った。  そこで、捜査をもうしばらく継続させてくれるよう求めていたのだが、すでに本部長を初めとするお偉方の腹は決まっていた。  一度自殺として処理された君島殺しに関しては、立証が極めて難しい。そのため、緑殺しと峰子殺しに関して、島根県警と鳥取県警がそれぞれ「被疑者死亡」として書類を検察庁へ送り、仲良く捜査の幕を下ろそうというのである。  溝口は、稲垣を犯人とした場合いくつかの疑問点が残るのを認めている。いや、本部長だって、認めないわけではない。だが、稲垣の他に犯人の可能性のある人間がどこにいるのか、どこにもいないではないか、というのだった。  十八日の朝、若月たちは、稲垣と峰子と思われる男女が鳥取砂丘西口の駐車場に駐められた車の中で死んでいる、という連絡を受けると、すぐにパトカーを飛ばした。  鳥取に着いたのは午後一時過ぎ。すでに駐車場から鳥取市警に移動されていた死体を見て、稲垣と峰子に間違いないことを確認した。  その後、死体は解剖に回され、若月たちは二人が死んでいた場所、車、持ち物などを見せてもらいながら、捜査に当たった刑事から話を聞いた。  その時点では、峰子の首に手で絞められた痕がある点、二人が死んでいた白いルナーは前日峰子が鳥取市内のレンタカー会社から借りたものである点、ぐらいしか分かっていなかった。  が、間もなく、峰子が鳥取市内のホテルに高峰和子名で十一日から泊まっていた事実が判明し、夕方、東京から稲垣の妻路子、「パープル」のママ安藤靖江が到着した頃には、解剖も終わり、死因などがはっきりした。  峰子は刑事たちの観察通り、手で首を絞められたことによる窒息死、つまり扼殺であった。それに対し、稲垣には外傷が一切認められず、コーヒーに混入して飲んだ青酸性毒物による中毒死と判明した。     レンタカー内に落ちていたコーヒーの缶、小さなサランラップから青酸カリが検出され、稲垣が病院か研究室からサランラップに包んで持ち出した青酸カリを缶コーヒーに入れて飲んだもの、と考えられた。  死亡時刻は、二人とも午前六時前後(五時から七時の間)、と推定された。  これより前、若月たちは、稲垣がどこで「出雲1号」から降りたかを調べていた。  可能性のあるのは、若月たちが寝ていた間に通過した福知山(午前二時五十九分着)、豊岡(四時一分着)、城崎(四時十四分着)のいずれかしかないため、これら三駅に、稲垣らしい男が今朝「出雲1号」から降りなかったか、と電話で問い合わせたのである。  その結果、福知山駅から、�松江までの切符を持ったそれらしい男が下車した�という回答があった。  誰かと一緒だったか、一人だったか、どちらへ向かったか、は分からないという。  だが、稲垣が福知山で午前三時に「出雲1号」から下車していたという事実に、峰子が前日レンタカーを借りていた事実、二人の死亡時刻、死因を合わせると、一つの想像が浮かんできた。  緑の死んだ後、松江から東京へ帰らず、鳥取に潜伏していた峰子が、レンタカーで福知山まで稲垣を迎えに行った、という想像である。  もちろん、峰子の潜伏は、稲垣の指示だったにちがいない。さらに、稲垣は、今後の件を相談しようといった理由をつけて峰子を呼び、刑事の尾行を撒くために福知山で下車したのであろう。  鳥取・福知山間はおよそ百十キロ、車で約三時間の距離である。  午前三時に福知山で「出雲1号」から降り、車を走らせれば、六時前後には鳥取に着ける。  砂丘西口の駐車場にレンタカーを駐めてから峰子の首を絞め、つづいて稲垣自身は青酸カリを飲んだと考えれば、時間的にもぴったりなのだ。  辻褄は合っていた。  松江行きの切符を買っておきながら、刑事の尾行を撒くために福知山で深夜の三時に下車した事実といい、峰子と一緒に死んでいた事実といい、稲垣を犯人と見れば、非常にうまく説明できる。  が、それでいて、若月の胸には、もやもやとした割り切れないものが残った。  稲垣は何をしに山陰へ来たのだろうか?  峰子に会い、二人で一緒に死ぬためだったのだろうか?  もしそうなら、若月たちの尾行を撒いて福知山で降り、なぜその近くで死ななかったのか? なぜ、鳥取砂丘まで行って死ぬ必要があったのか?  これらの疑問も、説明しようと思えばできないわけではない。  暗に自分たちの犯した罪を認め、二十一年前、稲垣が心中に追い込んだ夫婦に対する謝罪の意を込めた、という説明だ。  だから、若月の考え過ぎかもしれない。  稲垣と峰子が共犯だったらしいと判明し、九日の夕方皆生ビーチホテルから緑を誘い出した事情も、より納得できた。  初め、若月たちは男の電話で緑は誘い出されたと考えていたのだが、稲垣にとって、敵対する緑を誘い出すのはかなり難しかったにちがいない。  夕方六時頃、男からホテルへ電話がかかったのは、交換係も証言しているので、事実であろう。が、その電話に緑が出たと言っているのは、峰子だけなのである。  としたら、電話には峰子が出て稲垣と適当に話し、それから「散歩に行こう」と緑を誘い出し、稲垣が車で来て待っている人気のない場所へ導いたと考えたほうが、自然だし、はるかに簡単であった。  また、警視庁に依頼して調べてもらったところ、峰子のマンションの部屋は、指紋がきれいに拭き取られていた。これだって、峰子が共犯だからこそ、稲垣が彼女との心中を念頭に置く前、証拠を消すためにやったと思われる。  ——以上のように若月たちは話し合った。  要するに、�稲垣に峰子が協力して佐江田緑を殺し、無理心中した�と考えれば、ほとんどの事柄は説明がつくのである。  それでいて、若月の胸から、稲垣を犯人と断定することに対するこだわりが消えないのだった。  なぜか、と自問してみる。  なぜだろうか?  昔、高校時代に数学で習った〈十分条件〉と〈必要条件〉の関係のようだった。  稲垣を犯人と見れば、すべて説明がつく。  だが、説明をつけるために、稲垣を犯人と見ることが絶対に必要だろうか。  他の人間が犯人では、稲垣を犯人と見て説明できた事柄を、うまく説明できないだろうか。  もしできなければ、稲垣は犯人としての〈必要・十分条件〉を満たしたことになり、彼が犯人であろう。  が、もし別の人間を犯人と見て説明できれば、論理的には、稲垣を犯人と断定するわけにはゆかない。稲垣は、犯人としての〈資格〉つまり〈十分条件〉は満たしていても、〈必要条件〉を満たしているとは言えないのである。  どうやら、若月のこだわりの因《もと》はそこにあるようだった。  彼は、稲垣以外の人間が犯人でも、これまで稲垣を犯人と見て考えてきた事柄が説明できるのではないか——そんな気がしていたのである。  このことを彼が溝口に話すと、 「そりゃ、稲垣と峰子を自由に操れた人間ならな」  と、溝口が言った。「だが、ツキさん、もしそんな魔法使いのような、催眠術の名人のような人間を想定したら、どんな事件だって、真犯人以外に犯人の可能性のある奴が出てきてしまうじゃないか」  確かに彼の言う通りだった。  が、若月の考えているのは少し違う。  彼は、別に魔法使いや催眠術の名人を想定しているわけではない。  操るといっても、この場合は、稲垣が福知山で刑事の尾行を撒いて降りるよう、仕向ければいいのである。それぐらいなら、できた人間がいても不思議はないだろう。  しかし、彼がそう言っても、溝口の結論は、 「ツキさんのこだわる気持ちは、分からんでもないが、具体的にそうした疑いのある人間が浮かんでくれば別だが、そうでないかぎり、どうしようもない」  というものだった。  若月が、警視庁の岩崎刑事から、「上京の予定はないか」という電話を受けたのは、彼自身にもどうしようもなくなっていた二十一日(月曜日)の夜だった。  できれば、直接会わせたい人間がいる、というのである。  稲垣の最後の山陰行きに関して、新しい情報を握っている男だという。 「その男は、犯人は稲垣じゃない可能性が高い、と言っているんですが」 「稲垣が犯人じゃない、ですか……!」  若月は衝撃を感じ、後のほうはつぶやくように言うと、 「分かりました。必ずまいるようにしたいと思いますが、上司と相談し、折り返しお電話します」  早口で答え、受話器を置いた。  立ち上がり、別の刑事と立ち話をしている溝口のところへ歩いて行った。  胸が高鳴っていた。  どういう情報か分からない。分からないが、警視庁の刑事がわざわざその男に会わせたいと知らせてきた以上、ガセではないような気がした。     4  翌朝、若月は小笠原とともに、九時五十分に出雲空港を飛び立つJAS272便で東京へ向かった。  先日上京したときと同じ便である。  岩崎から電話で、稲垣の勤めていた慶明大学へ直行するように言われていたので、羽田へ着くと、モノレールとJRの電車を乗り継いで、水道橋まで行った。  慶明大学といっても、医学部ではなく、理学部数学科・笹谷研究室というのが岩崎の指示した行き先だった。  水道橋から五、六分歩き、大学の門を入って訊くと、数学科は理学部の建物の五階だという。  教えられた通り、エレベーターで五階まで上り、笹谷研究室という札の掛かった部屋の一つをノックすると、隣りの部屋から岩崎が笑顔を覗かせ、 「こちらです」  と言った。  そこは、狭いながらも応接室らしく、簡易応接セットが置かれ、男三人、女一人が座っていた。  四人の男女は若月たちを見ると腰を上げ、岩崎がまず若月と小笠原を彼らに紹介し、次いで四人を順に紹介した。  一番小柄な男が、警視庁殺人班の勝部長刑事、その横が慶明大学数学科教授で稲垣の友人でもあった笹谷精一、そして、彼らの斜め手前の若い男女が、精一の助手の黒江壮と精一の娘、美緒だという。  若月たちが腰をおろすのを待って、岩崎が壮と警視庁の関わりを説明した。彼によると、これまで、いくつもの難事件を壮と美緒の協力を得て解決しているのだという。そうした関係から、稲垣の義兄から聞いた新事実を警視庁を通じて若月たちに話したい、と言ってきたらしかった。  事情を了解したところで、岩崎に促され、壮が話した。  それは、なぜ電話で教えてくれなかったのか、と岩崎を恨みたくなるほど簡単な事実だった。  稲垣は義兄に、 〈松江へ行ってある男に会ってくる、そうしたら何もかもはっきりさせる〉  そう言ったというのである。  簡単ではあったが、しかしその事実は、まさに若月が求めていたものだった。  壮が、稲垣の言葉は事実を述べたものにちがいない、という根拠を述べた。  警視庁が一目置いているだけに、説得力のある推理だった。  若月は、壮という男に関する岩崎の説明を聞いたとき、了解はしたものの、良い気分ではなかった。素人探偵に警視庁がいくら世話になろうと知ったことではないが、そこに自分たちまで巻き込まないでもらいたい、と思った。  今でも、その気持ちは残っている。とはいえ、壮という男の論理的な思考、静かで押しつけがましくない話しぶりに接し、だいぶ和らいでいた。  壮の話が終わったところで、 「分かりました」  と、若月は言った。「私どもの捜査本部にも、稲垣先生を犯人と見ることに疑問を抱いている者が少数ながらおりました。今、伺ったお話が事実なら、その松江の男こそ、犯人にちがいありません」 「となると、第一の問題は、その男を見つけ出すことですね」  勝が言った。 「その通りです」 「何かメドがおありですか?」 「稲垣先生の周辺を、もう一度徹底的に洗ってみます」 「それで見つかるでしょうか? 先生の過去や周辺に、これまで、松江に関わりのある人間がいたんですか?」 「残念ながら、おりません」  若月は認めた。  稲垣の過去や周辺は、峰子との関係、君島との関係をはっきりさせようと、すでに調べ尽くしたと言える。  それでいて、峰子、君島との結び付きの証拠をつかめなかっただけでなく、彼と山陰との関わりを示すような物あるいは人間は、まったく浮かんでこなかったのだった。 「私も、ひと通りの事情は岩崎君から伺っています。ですが、もし差しつかえなければ、捜査の状況を詳しくお話しいただけませんか? もしかしたら、多少お力になれるかもしれませんから」 「それは、お世話になっている警視庁さんに対して、でしたら……」  若月は暗に、勝と岩崎だけなら話してもいい、という意を伝えた。 「もし、黒江さんたちを気にしておられるんでしたら、ここで伺った話を外へ洩らすような心配は絶対にありません。これは、私がこの痩せ首をかけて保証いたします」  勝は笑いながら言ったが、若月は警視庁にはめられたような気分になった。  自分たちをわざわざ東京まで呼んだのは、この壮という男の前で詳しい事情を話させるためではなかったか。  しかし、そう思っても、警視庁にはこれからも協力してもらわざるをえないので、喧嘩するわけにゆかない。 「実は、その後で、黒江さんが考えられたこともお話ししたいそうなんです」  若月が不満の意を示すためにちょっと黙っていると、岩崎が言葉を添えた。  若月は腹立たしかった。  勝だけでなく、岩崎も素人の味方なのか。これじゃ天下の警視庁が聞いて呆れるな、と軽蔑した。  だが、そう思うと、若月は、何となくこれまで感じていた警視庁に対するコンプレックスから解放され、 〈よし、それなら何でも話してやろうじゃないか〉  という気になった。  警視庁に対する挑戦である。  もしかしたら力になれるかもしれない、と勝が言ったが、警視庁殺人班の力を試してやろう。また、彼らがチヤホヤしている「名探偵」のレベルがどの程度のものか、その説を聞いて、計ってやろう。 「若月さんたちの事情もあるでしょうから、もちろん無理にとは申しませんが」  勝が言った。 「結構です。口外されないとお約束いただければ、お話ししましょう」  若月は答え、時々勝の質問を受けながら、これまでに判明している事実、捜査の経緯を、詳しく説明した。  相手と力比べをするからには、データを隠していたのではアンフェアになるからだ。     5  若月は、話し終えたところで、勝と岩崎としばらく意見の交換をした。  その間、壮は一度も口を挟まず何かを考えるような目をしていた。  どういう内容であれ、若月は〈壮の考えたこと〉というのを早く聞いてみたかったのだが、勝も岩崎も忘れたように、促す言葉を口にしない。  といって、若月は、自分から素人に意見を求めるようなまねはしたくなかった。  彼はジリジリしてきた。そして、騙されたのかと思い、ふたたび腹を立て始めたとき、美緒が彼の心を読んだように、 「整理がついた?」  と、壮に訊いた。 「ええ、だいたい……」  無口らしい男が、やっと口を開いた。  勝と岩崎が彼に目を向けた。  少なくとも、勝の目には、明らかに期待の色があった。  若月はそんな勝に反発するように、 〈フン、何が整理だ、いつまでももったいぶりやがって。どうせ、たいした内容じゃないだろうに〉  と、心の内でつぶやいた。 「僕の考えをお話しする前に、一つだけ若月さんにお尋ねしていいでしょうか?」  壮が若月の目にひたと視線を当てた。 「何でしょう?」  若月は答えた。  意識したわけではないが、自然にぶっきらぼうな調子になっていた。 「君島さんは、ヘルス・ワンで相当儲けたんじゃありませんか?」 「その点、はっきり調べたわけじゃありませんが、たいした儲けはなかったようです」 「君島さんの奥さんは、どう言われているんでしょう?」 「宣伝費に食われ、儲けなどあまりなかったと言っています。事実、君島が死に、彼の遺族はかなり困っているようです」 「しかし、僕が、健康食品の業界紙記者に当たって調べたかぎりでは、かなりの儲けがあったようなんですが」 「…………」 「ヘルス・ワンの原料費は、五千円の小容器入りで二百二、三十円、一万円の大容器入りで精々五百円だそうです。自然食品の店や薬局には定価の四割程度で卸していたようですが、八割がたは雑誌の広告やチラシを見て申し込んできた人間に、郵便小包みで送っていたんじゃないか、という話でした。  その場合、沢山注文した者には二割ほど引いていたらしいんですが、それでも、儲けは相当だったんじゃないか、というんです。もちろん、人件費、広告宣伝費を差し引いてもです」 「では、君島の奥さんが、被害者の会に賠償訴訟を起こされるのを警戒し、金を隠している?」 「それが一つの可能性ですが、どこかへ流れたという可能性もあります」 「どこかへ?」 「友ヘルスアカデミーの経理は、どなたがやっていたんでしょう?」 「君島本人です。女子事務員が一人いたし、奥さんも多少手伝っていたようですが、現金書留で送られてきた金がどこへいったかは、知らないそうです。というより、宣伝費に食われて儲けにならない、といつも君島がこぼしていたので、その支払いに使われているのだろう、と思っていたようです。奥さんの話では、それでも、サラリーマン時代に比べると、月々渡される金はだいぶ多かった、と言っていますが」  若月は答えながら、壮の言わんとしていることの予想がつき始めた。  すると、徐々に緊張にとらえられた。  真摯《しんし》に壮の話を聞く気になっていた。  自分の負けかもしれないと思ったが、意外に悔しくなかった。  それよりは、これで真犯人に到達する道が開けるかもしれない、という期待のほうが強かった。  若月をこんな気持ちにさせたのは、壮という男にはまるで驕《おご》ったような態度が窺えないからかもしれなかった。 「どうやら、僕の想像が当たっていたようです」  壮が言葉を継いだ。「たぶん、奥さんは事実を話しているんだと思います」 「では、友ヘルスアカデミーには、君島を操っていた黒幕がいた?」 「そうです。その黒幕が資金を出し、君島さんにインチキ食品の会社を営《や》らせ、儲けの大部分を吸い取っていたんじゃないでしょうか」 「なるほど」 「また、この構図は、二十一年前の闇金融の構図に似ているんです。そのとき表に顔を出し、貸金の取り立て役をさせられていたのは、当時困っておられた稲垣先生ですが」 「黒幕は同じ人間だ、というわけですな」  勝が言った。 「この構図の符合に加え、闇金融の黒幕が山陰出身の人間であったらしい点、稲垣先生が〈松江の男〉に会いに行くと言われた事実などから考え、そう思います」 「そして、その男こそ、君島と佐江田緑を殺した犯人であり、稲垣先生と日下峰子も同じ犯人に殺された?」  若月は言った。 「たぶん……。稲垣先生には、貧乏な学生時代、その男の手先になって若い学生夫婦を心中に追いやってしまった、という消すことのできない過去がありました。現在、大学医学部教授という地位にある先生にしてみれば、それは絶対に世間に知られてはならないキズでした。  このキズが、先生を今度の一連の事件に巻き込んだ原因だと思います。  友ヘルスアカデミーと黒幕の関係や、君島さん、日下さんと黒幕の関係を先生がどこまで知っていたのか、また、ヘルス・ワンの推薦文に関する君島さんと先生の言い分はどっちが正しかったのか、黒幕が具体的にどうやって先生を操ったのか——こういった点は、僕にもまだ分かりません。  ですが、黒幕が先生のキズを握っていたが故に先生の優位に立ち、ヘルス・ワンの推薦文の件に何らかのかたちで関与し、都合よく先生を動かせたのだけは確実ではないか、と思います。  また、黒幕は、君島さんについても、何かの貸しがあったか彼の弱味を握り、先生に対してと同じような優位を確保し、自由に操っていたんじゃないでしょうか」 「なるほど。ただ、黒幕がいくら二人に対して優位を確保していても、マスコミが騒ぎ出し、佐江田緑たち被害者の会の追及も厳しくなり、このままでは自分の存在が表に出るのは時間の問題になった。そこで、まず君島を消した、というわけですね」 「そうだと思います。若月さんの言われた危険を食い止めるには、君島さんを消すのが一番です。というより、君島さんが生きているかぎり、いつ彼の口から真相が明らかにされるか分かりません。一方、君島さんさえいなくなれば、すべての罪を彼に被せ、騒ぎを終息させることができそうです。たとえ稲垣先生が友ヘルスアカデミーと黒幕の関係に気づいていたとしても、〈君島さんが自殺して〉騒ぎが鎮まれば、自分のキズのことがあり、何も言わないにちがいありません。  黒幕はそう読んだんでしょう。  そこで、万一君島さんの死に不審を持たれた場合は先生に罪を被せるため、君島さんをつかって先生を山陰へ呼び寄せ、先生が君島さんに指定された境港のフェリー乗り場へ行っているとき、すぐ近くで川へ突き落とし、殺したんだと思います」  若月は感心した。  壮の推理にである。  まだ、具体的には不明な部分が多い。とはいえ、少なくとも若月が漠然と感じていた疑問を、壮は大筋において解き明かしてくれたのだった。  もう、〈素人などに……〉といったバカにした気持ちは消え、勝たち警視庁がこの男を信用している事情を、若月は理解した。     6 「黒幕の読みは、ほぼ当たりました。すべては君島さんがやったことになり、ヘルス・ワン被害者の会の矛先《ほこさき》も鈍ったからです」  壮がつづけた。「ところが、彼にとって、一つだけ誤算がありました」 「佐江田緑が、あくまで稲垣先生の責任を追及する構えを解かなかった点ですな」  勝が言った。 「そうです」 「で、先生は困り、たぶん今度は黒幕と話し合うため、八日の晩、笹谷さんと乗り合わせたという『出雲3号』で山陰へ行った。ところが、それをまた犯人に利用され、佐江田緑が殺された?」 「ええ」 「緑を犯人の都合のいいように動かしたのは、もちろん日下峰子ですね?」  若月は言った。 「他に考えられません。彼女が犯人の指示を受け、何らかの口実を設けて、佐江田さんを山陰へ誘ったのは確実です」  ここで、壮が、九日の夕方皆生ビーチホテルにかかった男の電話に関し、若月たちが稲垣を犯人と見て考えていたのと同様の推理——稲垣を犯人の男に替えた推理——を述べた。 「佐江田さんをホテルから誘い出したのも、若月さんたちの考えられた通り、日下さんだと思います」 「となると、峰子のマンションへ出入りしていた男も、稲垣先生でなく、当然、犯人ですね」 「ええ。君島さんが日下さんの店『パープル』へ行って彼女と知り合い、君島さんを接点にして、犯人と日下さんが知り合ったんじゃないでしょうか」 「そう考えると、峰子がずっと鳥取にいた事実もすっきりします。松江の犯人は、峰子を東京へ帰すのが不安だったにちがいありません。そこで、いずれ彼女も消さなければならなくなるかもしれないと考え、松江から近くなく、といって、それほど遠くない鳥取に隠れさせていたんでしょう」 「なるほど」  勝がうなずき、「ところで、ちょっと話は違いますが、佐江田緑が殺されてからは、稲垣先生は犯人に気づいていたんじゃないですかな。どうなんでしょう?」 「そのへんは、よく分かりませんが、もしかしたら気づかれていたのかもしれません」  壮がちょっと苦しげな顔をして認めた。 「君島の場合と違い、今度は殺人とはっきりしているし、自分を除いては、黒幕以外に犯人の可能性のある者はいないわけですからね」  若月は言った。 「そうなんです」 「しかし、犯人が巧妙に騙していたとすれば、稲垣さんは気づかなかったという場合もありうるんじゃないかね」  精一が、初めて口を挟んだ。「つまり、稲垣さんは、黒幕でもなく、もちろん自分でもない犯人がいると思い込まされていた場合だが」 「確かに、先生の言われたような可能性もあると思います。犯人としては、いくら稲垣先生の過去のキズを握っていたといっても、殺人犯人だと疑われたら危険ですから」  壮が答えた。 「もしかしたら、稲垣さんは薄々真相に気づき始め、それで今度、犯人に会いに山陰へ行ったんじゃないかね。だから、松江である男と会ってきたら警察にすべて話すつもりだ、と義兄の山崎さんに言ったんじゃないかね」 「そうか、そうですね。そう考えたほうが、自然ですね」 「なるほど。ところが、犯人はさらに狡猾で、すでに〈稲垣先生と峰子を心中させる〉計画を着々と進めていたわけですか」  勝が言った。 「ええ」  と、精一が相槌を打った。 「確かに、その通りだったかもしれません」  若月も認めた。「稲垣先生が黒幕の犯行にはっきり気づいていたら、そう易々と男の言う通りには動かなかったでしょうから」 「先生を福知山で『出雲1号』から下車させた、ということですわね」  美緒が訊いた。 「そうです」 「でも、具体的にはどうしたのかしら?」  彼女が首をかしげた。 「そのへんは、まだ分からないのですが」 「こうは考えられんですかね。  稲垣先生は薄々犯人に気づきながらも、犯人が自分まで殺そうとしているとは想像できなかった。そのため、誰も邪魔の入らないところで落ちついて話したい、警察に尾行されている可能性があるので、松江までの切符を買って途中下車して欲しい、そう犯人に言われ、あまり警戒せずにその通りにした。……いや、これじゃ、あまり具体的とは言えんですか」  勝が言って、照れ笑いを浮かべた。 「いえ、だいぶすっきりしてきました。細かい点はもちろんこれからはっきりさせなければなりませんが、とにかくこれで、犯人が日下峰子と稲垣先生を別々に殺した後、二人の死体を峰子に借りさせたレンタカーの中に寝かせておいたのは、いっそう確実になったようです」  若月は言って、壮の顔を見やった。  美緒と勝、若月がやり取りを始めると、もう自分の役目は終わった、とでもいうように黙り込んでいたからだ。  どこかはにかんだような表情をし、自分の手柄を誇るような色は微塵《みじん》もない。  若月は、妙な男だなと思いながらも、惹《ひ》かれるものを感じた。これまで、いろいろな人間に接してきたが、初めて出会ったタイプだった。 「今日はありがとうございました。おかげで、隠されていた事件の本当の筋書きが見えてきました」  彼は心底から礼を言った。 「真犯人に心あたりがおありですか?」  勝が訊いた。  ええ、と若月は答えた。  彼らと話しているうちに、若月の脳裏には、一人の男の名が浮かび上がってきていたのだった。  壮の推理に従えば、真犯人は、  (1) 松江に住んでいる。  (2) 君島と懇意にしていた。  (3) 二十一年前、東京にいた。  (4) 年齢、体付きが稲垣と似ている。  (5) 月に一、二度は上京していた。  少なくとも、以上の条件を満たしていなければならない。  (4)と(5)は、もちろん峰子の部屋へ出入りしていた男の条件である。  これらのうち、若月が思い浮かべた男は、(3)と(5)の条件が不明だった。  だが、(1)(2)ははっきりしているし、その男に会った水谷刑事の話によれば、(4)も満たしているようだ。 「差しつかえなかったら、その男の名前と素性を教えてくれませんか」 「私も会ったことはないのですが、松江の市議会議員で、高石食品という会社を経営している高石将人という男です」  若月は答えた。     7  若月と小笠原はその日のうちに出雲北署へ帰り、溝口たちに結果を報告した。  稲垣を犯人として決着をつける寸前までいっていた捜査本部は、いっとき混乱したものの、本部長が、書類を検察庁へ送るのをしばらく見合わせ、捜査を継続することを決断した。  前に水谷たちが高石将人から話を聞いたときは、稲垣が犯人に間違いないと考えていたため、高石自身についてはほとんど何も調べていなかった。そこで、高石に直接ぶつかる前に、若月たちは、高石の経歴、高石食品の内情、君島との関係などを徹底的に調べ、彼の写真を警視庁に電送して、峰子の住んでいたマンション「エスカイア山ノ手」の住人に見てもらった。  その結果、次のような事実が明らかになった。  ——高石将人(四十八歳)。松江市の出身だが、高校を卒業すると東京のR大学経済学部へ進学。卒業後は、茅場町に本社のある中堅証券会社S証券に就職し、七年後、二十九歳のとき退職し、松江へ帰る。  松江には小さな食料品店を営む両親がいたが、実家から一キロほど離れたところに土地を買ってプレハブを建て、「高石食品」を設立。宍道湖で取れるシジミを佃煮等に加工する、従業員三、四人の会社を始めた。当時の金で五、六百万円の資金が必要だったはずだが、それは、彼がすべて一人で手当てした。父親には、東京でコツコツ貯金してきた金だと説明したらしい。しかし、大学卒の初任給が三万円前後の時代である。七年間で六百万円蓄めたということは一年間に約九十万円、ボーナスを考えても年収の二倍近く毎年貯金したことになり、尋常の方法では不可能である。  その後、彼の才覚からか、会社はどんどん大きくなり、松江大橋の北側に五階建ての本社ビルを構える、従業員数百二十人、年間売り上げ高二十数億円の水産物加工会社になった。  といっても、成長は四、五年前でストップし、現在、経営状態はあまり芳《かんば》しくないらしい。六年前、本社ビルを抵当にして金を借り、南の郊外に広い敷地を持つ第二工場を造ったにもかかわらず、売り上げが頭打ちとなっている。  それでいて、高石は次の県議会議員選挙に立候補を予定しており、かなりの選挙資金が必要だったと思われる。  君島との関係は、二十数年前、同じS証券に君島も二年ほど勤めていたので、そのとき知り合ったらしい。君島の父親の郷里が松江で、君島も松江で生まれ、九歳まで育った。そうした事情から、二人は近づいたのかもしれない。  二人の詳しい交際の内容は、君島の妻も知らないというが、君島は妻に「高石さんには生涯、頭が上がらない借りがある」と洩らしたことがあったという。これから、君島も、稲垣の場合と似たような弱味を高石に握られていた可能性がある。  君島の妻が高石の名を聞くようになったのは、君島が東京で小さな会社の営業マンをしていた五、六年前から。昔、世話になった人で、松江で食品会社を営《や》っている、と言っていた。どこかで偶然、出会ったらしい。が、彼女自身は松江へ来るまで、高石に会ったことはなく、君島もそれ以上詳しい話はしなかった。  三年前、君島が松江へ来て、「友ヘルスアカデミー」を始めたのは、父親が死亡し、他人に貸していた父親名義の松江の土地を相続したのがキッカケである。少なくとも、君島の妻は夫からそう聞いていた。そのとき、何かと世話をしてくれたのが高石である。とはいえ、彼女は、資金が彼から出ていたかどうか知らないし、儲けのほとんどを彼に吸い取られていたかどうかも、知らない。  一方、高石食品は、八年前、販路を拡大するため、東京蒲田に出張所を設けた。女子事務員一人と営業マン二人がいるだけの小さな出張所だが、以後、高石は月に一、二度上京するようになり、そのときの宿泊用として、大崎に二DKのマンションを買った。だから、高石が君島と再会したのは、彼が仕事のために上京した折であったと思われる。その後、君島の紹介で峰子を知り、彼女と深い関係になってからは、上京するたびに彼女の部屋を訪ねていたのではないか。  以上のような若月たちの調べと推理に前後し、高石の写真を「エスカイア山ノ手」の住人に見せた岩崎の報告が届いた。  しかし、それは、稲垣を疑っていたときと同じように、峰子の部屋に出入りしていた男に似ているようだが、同一人かどうかはっきりとは分からない、というものであった(峰子の部屋の指紋が消されていた点は調べ済みである)。  とはいえ、これで、壮たちと話したとき若月が考えた〈(1)から(5)までの条件〉を、高石は完全に満たしたのである。  それだけでなく、判明した事実は、次のような点も指し示していたのだった。    ◎ 二十数年前、高石は東京でサラリーマンの傍ら何か金儲けをしていたらしい。  ◎ 三年前、自由になる選挙資金を手に入れるため、友ヘルスアカデミーを創り、インチキ健康食品で金儲けを企んだらしい。  ◎ 友ヘルスアカデミー設立に際し、自分の名を出すわけにはゆかないので、何らかの事情から弱味を握っていたか�貸し�のあった君島を東京から呼び、表に立てたらしい。 第七章 京都・立ち塞がるアリバイ     1  若月が宮部というベテラン部長刑事とともに、高石将人の自宅を訪ねたのは、勤労感謝の日の翌日、二十四日(木曜日)の朝九時前だった。  高石の家は松江城の東側、堀に沿って小泉八雲記念館、八雲旧居、田部美術館など、昔の武家屋敷の面影を残す築地塀や長屋門のつづく「塩見縄手」から歩いて六、七分のところにあった。  生垣に囲まれた、敷地が二百坪ほどの二階家である。  まだ建って十年ほどだろうか、それほど立派な家というわけではない。  前を通っている道路の奥に、松江城が望めた。今は薄日が射しているが、昨夜は雪が降ったため、天守閣の屋根はいつもの黒から白に変わっていた。  朝、突然刑事が訪ねてきたためだろう、玄関へ出てきた高石の妻は、表情を強張らせて応対した。  美人だが、険のある顔だった。  彼女につづき、すぐに大島を着た高石も現われ、腕を組んだまま、 「何ですか?」  と、不機嫌そうな声で訊いた。  水谷に聞いてきた通り、身長百七十四、五センチの、がっしりした体躯をしている。  目がぎょろりと大きく、唇が厚い。  個性の強そうな顔だ。  若月は名刺を出し、ある事件の参考までにしばらく話を聞きたい、と言った。 「ある事件? どんな事件ですかね?」  高石が、名刺にチラッと目を走らせてから、訊いた。 「君島友吉、佐江田緑、日下峰子、ならびに稲垣庸三が殺された事件です」  若月は相手の目に視線を当てたまま、はっきりと答えた。 「何です、それは?」  高石の目の中で一瞬小さな翳が揺れ、彼は若月の目から視線を逸らした。  が、慌ててそれを若月に戻し、 「私は君島さんなら知っているが、他の三人は知らん」  強い調子で言った。 「佐江田緑が殺されたとき、うちの本部の者が社のほうへ伺っているはずですが」 「たしかに刑事さんは来た。だが、君島さんについて、ほとんど一方的に訊かれただけだ」 「あなたは、新聞を読まないんですか?」 「政治、経済面以外はほとんど見ない」 「あなたは君島さんと親しくし、彼の相談に乗ってやっていたんじゃないんですか? それなのに、彼の関わった事件に関心がないんですか? 不思議ですな」 「彼についての記事ぐらいは読む」 「でしたら、他の三人の名前もご存じでしょう? 君島さんと一緒に、このところ頻繁に新聞に出ているんですから」 「そう言われれば、ま、見たことがあるかもしれんが……しかし、だからといって、その人たちが私と何の関係があるのかね?」 「その点を、落ちついてお聞きしたいんですがね」  若月は、妻の前でいいのかというように、夫の横で頬を引きつらせている女に視線をやった。 「分かった。それなら、とにかく上がりたまえ」  高石は言うと、妻に「おまえは心配しないで下がっていていい」と囁き、自分で若月たちを右手の応接間へ導いた。  マホガニーのテーブルを挟んで、革張りのソファに一度腰をおろしてから立ち上がり、エアコンの暖房を入れてきた。  この男の趣味なのか、部屋には、絵や壺などの他に、トナカイの首、キツネ、鷹などの剥製が飾られていた。 「それじゃ、あんたが言った三人の人間と私がどういう関係があるのか、聞かせてもらいましょう」  腕を組んで、言った。 「その前に、確認しておきたいんですが、君島さんが営っていた友ヘルスアカデミーの本当のオーナーは、高石さん、あなただそうですね?」  若月はぶっつけた。 「な、なに?」  高石が組んだばかりの腕を解き、目を剥いた。「誰がそんなことを言ったんです? 出鱈目もはなはだしい。私は関係ない、私は、君島さんの相談に乗ってやっていただけだ」 「そうですか。君島さんは、儲けをみんなあなたに吸い取られてしまうとぼやいていた、というんですがね」 「そんな出鱈目を言ったのは、いったい、誰なんです?」 「名前を明かすわけにはゆきませんが……というわけで、あなたには、君島さんとさきほど言った三人を殺した容疑が出ているんですよ」 「ば、ばかな! 君島さんは自殺したんじゃないのかね? そうじゃなかったとしても、稲垣という人が三人を殺した犯人じゃないのかね?」 「ほう、稲垣という人間など知らんと言ったはずですが」 「思い出したんだ。さっきも言ったように、君島さんに関係した記事は読んでいたからね。あんたに言われ、思い出した」 「でしたら、ついでに、全部思い出してくれませんか。四人をどうやって殺したのか」 「き、きみは私に因縁をつけるのかね。私には、市警や県警に、知り合いが大勢いるんだぞ。私が訴えたら、どうなるか分かっているのか」 「結構です。県警本部長にでも誰にでも言いつけてください」 「貴様……!」  高石が立ち上がった。ぶるぶると震える指を若月に突きつけ、 「出て行け! 今すぐ、ここから出て行け!」  と怒鳴った。  若月たちは動かなかった。 「よし、出て行かなければ、家宅侵入罪で訴えてやる」 「どうぞ、ご自由に。しかし、我々の判決が出る前に、あんたには死刑の判決が下っているでしょうがね」  高石には、それ以上の行動を取ることができなかった。  自分が出て行くことも、知り合いだというお偉方に電話することも。  それによって、やはり彼が犯人に間違いないな、と若月は確信した。     2  やがて、高石が腰をおろした。 「あんたたちの話を聞こう」  と、冷静さを取り戻し、心を決めたらしい顔で言った。 「罪を認めますか?」 「認めやせん。あんたたちも人を殺人犯人呼ばわりするからには、相応の理由があってのことだろうから、それを聞かせてもらおう。私がどうして四人の人間を殺したのか? 君島さん以外の三人と、私がどういう関係にあったのか? あんたを誣告《ぶこく》罪で訴えるのは、それからでも遅くはない」 「その通りですな」  若月は応じ、これまでに調べた事実を壮の推理によって組立て、高石の動機と犯行を述べた。  まだ決定的な証拠こそなかったが、ほとんど事実に近いはずの事件の筋書きである。  それが的を射ていたことは、高石の表情を見ていれば、判断できた。  彼の目には、絶えず強い不安の翳が漂っていたからだ。  しかし、最後まで話し、若月たちが証拠を掴んでいないと分かったとき、彼の表情に余裕と安堵の色が差した。そして、 「それで全部ですか?」  と、唇に人を小馬鹿にしたような笑みを滲ませて言った。 「そうだ」 「としたら、何一つ、事実に基づくものがないですな。すべて、あんたがたの妄想じゃないですか。私と稲垣という人の関係、私と日下峰子という人の関係……もちろん、私が彼らを殺したという点も。ところが、私には、逆に犯人じゃないという証拠がある。少なくとも、佐江田緑という人を殺せなかったという証拠がある」 「アリバイですか?」 「私はそうした言葉をつかったことがないが、推理小説や推理ドラマに出てくる、そのアリバイというやつだ」 「佐江田緑とことわったからには、他の三人は殺せたんだな?」 「そういう言い方はしないでもらいたいね。じゃ、聞くが、刑事さん、あんたがたにだって、彼らを殺せたんじゃありませんか? あんたがたにも、アリバイがないんじゃありませんか? そして、もしそういう論法でゆけば、世の中の何万、何十万という人間も、あんたがたに殺人者呼ばわりされなきゃならん。ある殺人事件が起きたとき、アリバイがあるといった幸運にぶつかる場合は、それほど多くないはずだからね」 「あんたの詭弁は結構。我々は、アリバイがないからといって、誰彼なく疑っているわけじゃない。あんたには、いま話したように、十分に疑うに足る条件があるからだ」 「それこそ勝手な理屈だが……とにかく、私には、佐江田さんという方が殺されたとき以外は、どこそこで何をしていた、と証明することができん。  具体的に言うと、君島さんが亡くなった晩は、一人で会社に十時過ぎまで残って仕事をしていたし、稲垣さんという方と日下さんという方が亡くなった夜……先週の金曜日の明け方という話でしたな……そのときも、妻が一人娘の校外学習に付き添って前日から秋吉台へ行っていたので、私は家に一人で寝ていた。生憎、どちらのときも、電話や来訪者はなかった。  だが、佐江田さんという人が殺されたときは、違う。偶然の幸運から、私はどこにいたかはっきりさせることができる。  そして、私が無実だと証明するには、それで十分なんじゃないのかね?  あんたの話の通りなら、四人を殺したのは一人の犯人だ。だったら、四人のうち誰か一人でも殺せなかったとなれば、その人間は他の事件に関してもシロになる。違うかね?」 「ま、そうですね」  若月は認めた。 「とすれば、私に、佐江田さん殺しが不可能だったと証明できれば——その件に関して、あんたの言うアリバイさえあれば——文句がないわけだろう」  若月の胸に不安が萌した。  そんなはずはない、と思う。  高石は犯人なのだ。間違いない。  としたら、彼に、佐江田緑殺しに関するアリバイなど、あるわけがない。  そう思いながらも、若月は嫌な予感がした。さっき顔を真っ赤にして震えていたのが別人だったかのように、高石は落ちつきはらっていた。その自信に満ちた落ちつきが無気味だった。  高石が問題のアリバイについて話し出した。  佐江田緑が殺されたのは、今月九日の午後七時前後(六時から八時までの間)である。日下峰子が犯人・高石の協力者で、嘘をついていたとしても、緑と峰子が皆生ビーチホテルから六時半頃「散歩」に出たのだけは、ホテルの従業員の証言から、事実である。  また、峰子がその晩、皆生温泉と日御碕の間を四時間かけて往復し、緑の死体を捨てて来れなかった点も、はっきりしている。  それだというのに、高石の述べたアリバイは、九日の夕方から十日の朝にかけて、寝台特急「出雲4号」に乗り、東京へ向かっていた、というものだった。     3  若月は、事情を詳しく質した。  高石が犯人である以上、その晩、彼が東京行きの寝台列車になど乗っているわけがないからだ。  しかし、説明を聞くかぎり、高石のアリバイは絶対だった。  彼によると、東京行きの目的は、毎月決まっている社長自らによる販路拡大のための出張。九日は仕事の都合で午後から出雲へ行っていたため、「出雲4号」には出雲市駅から乗った。社長付きの運転手がホームまでバッグを持って送ってきたので、訊いてもらえば分かる、という。  ——列車が出雲市駅を出たのは夕方五時半頃です。私の席は最後尾の一号車、A個室寝台車両の五号室でした。  彼は言った。  ——もちろん、途中下車などせずに東京まで行ったのは、何度か車掌さんと言葉を交わしていますから、訊いてみてください。担当の車掌さんは米子で代わりましたが、初めは痩せて背の高い四十歳前後の人、米子から乗ってきたのは歳は同じくらいですが、ずんぐりした赤ら顔の人です。私の写真を見せれば、二人とも、思い出してくれるかもしれません。  車内の出来事で印象に残っていることが何かないか、と若月は訊いた。  ——印象に残っている出来事ですか……。そういえば、隣りの二号車で盗難騒ぎがありました。たしか、列車が米子と倉吉の間を走っていたときですから、晩の七時前後でしたか。五十歳前後の太った女性がバッグが見当たらないと言って騒ぎ出し、車掌さんも来て事情を訊いたり、捜したりしていたようです。私は食堂車へ行った帰りに隣りの車両を通ったんですが、その女性はまるで子供みたいに泣いてましたね。すぐ自分の個室へ帰って来てしまったので、その後、どうなったかは知りませんが。  ああ、そうだ、車掌さんと比較的長く話したのがいつだったか、思い出しましたよ。  深夜の零時近くです。私は、列車が鳥取を出て間もない八時半頃、浴衣に着替えてベッドに入り、本を読んでいたんです。それで、そろそろ寝ようかと思い、トイレに立ったとき、通路で車掌さんに会い、二、三分立ち話をしたんです。私のように年に何度も東京と山陰を往復する者には、トイレも室内に付いた、もう少しデラックスな個室が欲しい……そんな話をしたと思います。列車の京都着が零時半頃だったはずですから、その少し前です。  京都を過ぎた後は、個室を一度も出ていませんから、車内の様子は何も知りません。私は床が変わると眠れないほうなので、列車が停まるたびに、ここはどこだろう、と思っていましたがね。  というわけで、明け方になって眠くなり、うつらうつらしていると、東京でしたよ。それで、私は慌てて飛び起き、着替えをしただけで、顔も洗わずに降りたんです。  時刻は七時一、二分前でした。  降りるとき車掌さんと顔を合わせたか、ですか? さあ、どうでしたかな。慌てていたので覚えていませんね。  若月は、「出雲4号」で東京へ着いた事実を証明するものがないかと質した。  ——証明といっても、車掌さんでも私を見ていて覚えていてくれなければ、それはどうしようもありませんね。社員が朝早く迎えに来ていたわけじゃありませんし。  ——では、あなたが、出張所へ顔を出したのは何時頃ですか?  ——昼近くでしたか。  ——七時に着いて、昼近く?  ——出張所は蒲田にあるんですが、九時始まりですから、いくらなんでも、真っ直ぐ行ったのでは早すぎます。それで、東京へ出たとき泊まるために確保してある大崎のマンションへ先に行ったからです。シャワーを浴びてひと休みしていると、列車の中であまり眠れなかったせいか、眠くなってしまい、一時間ほどのつもりでベッドへ入ったんですが、目が覚めると十一時過ぎだったんです。  ——マンションへ行ったとき、管理人か顔見知りの居住者に会いませんでしたか?  ——会っていません。  ——ということは、昼近くに出張所へ顔を出すまで、あなたが東京にいたのは誰も知らない?  ——ま、そうですな。  若月たちは高石家を出ると、溝口に簡単な報告を入れ、まず松江駅へ行った。  九日の夕方、山陰を発って東京へ向かった「出雲4号」一号車に乗車勤務した車掌を、調べてもらうためである。  松江駅では助役の一人が応対した。  若月が高石の言った二人の車掌の特徴を告げると、彼は部下と話したりどこかへ電話したりしていたが、じきに若月たちの前へ戻って来て、 「分かりました」  と答えた。「それでしたら、米子車掌区の泉と本多という者だと思います。上りの『出雲』は米子で全員、車掌が交替するんですが、米子まで乗っていたのが泉、米子から乗ったのが本多です」 「そうですか。で、その泉さんと本多さんは、今、どこにおられるんでしょう?」  若月は訊いた。 「泉のほうは今日は休みだそうですが、本多でしたら、出雲市駅におります。今朝着いた『出雲1号』に乗車勤務してきたんだそうです。止めおくように言っておきましたので、連絡されるんでしたら、どうぞ」  若月は電話を借り、本多車掌と話した。  そして、�高石らしい男なら覚えている、宍道《しんじ》町に住んでいる泉と連絡が取れたら呼んでおく�という返事を聞いてから、二人に会うため、宮部とともに十時四十二分発の快速列車に乗って、出雲市へ向かった。  松江・出雲市間は、四十分。  彼らは、四人掛けのボックス席に二人で座ると、買ってきたばかりの時刻表を開いた。  本多たちの話を聞く前に、「出雲4号」の正確な停車駅、停車時刻などを調べておこう、と思ったのである。  時刻表によると、寝台特急「出雲4号」は始発駅の浜田を午後三時三十七分に発車し、米子までは、立席特急券で乗車できる。  出雲市駅到着は五時十二分。  ここで食堂車を含む前七両が増結されるため、十二分間停車し、発車は五時二十四分。  ページがとんで、見にくいため、停車駅と到着・発車時刻を若月が読み上げ、宮部が手帳に整理した。  それによると、出雲市から東京までの停車駅は次の通りだった。    出雲市(5:24発)    松江(5:59〜6:00)    安来(6:23発)    米子(6:32〜6:37)    倉吉(7:31発)    鳥取(8:10〜8:13)    浜坂(8:47〜8:48)    城崎(9:32発)    豊岡(9:42〜9:44)    福知山(10:45〜10:47)    綾部(11:00〜11:01)    京都(翌午前0:25〜0:33)    静岡(4:29〜4:31)    沼津(5:13〜5:14)    熱海(5:31〜5:32)    横浜(6:33〜6:34)    東京(6:56着)     4  若月と宮部が出雲市駅に着いたのは、十一時二十分。  本多に快速で行くと言っておいたので、彼は改札口の近くまで出て待っていた。  ずんぐりした赤ら顔で、ひと目でそれと分かった。  若月たちが近寄って行って挨拶すると、 「いま泉さんも見え、トイレに行ってますから」  と、言った。  泉が来たところで、 「お休みのところ、申し訳ありません」  若月は詫び、駅前から真っ直ぐ北へ延びている中央通りを二、三百メートル行ったところにある喫茶店へ二人を誘った。  全員がコーヒーを注文したところで、若月が高石の写真を示すと、 「この人です」  と、泉も本多もすぐに認めた。 「どうして、はっきり覚えておられたんでしょうか?」  若月は、二人の顔に交互に目をやりながら質問を継いだ。 「そうですね……私は二、三度、話をしたからですね」  泉が答えた。 「本多さんは?」 「私も二度ぐらい顔を合わせ、そのうち一度は、『北斗星』のようなシャワー、トイレ付きのA個室寝台�ロイヤル�を、『出雲』にもぜひ設けてくれ、これはJRへの正式の提案だ、そんなふうに、ちょっとしつこいくらいに言われたからでしょうか。折角、個室を利用しても、トイレのたびに外へ出て行くのは面倒臭い、そういうお話でした」 「顔を合わせたり話をしたりされただいたいの時刻を、覚えていませんか?」 「車内改札(検札の正式名称)をしたのが出雲市を出て間もなくでしたから、私が最初に顔を合わせたのは五時半頃ですね。それから、米子で本多さんに『寝台整理表』を渡して引き継ぐまでの間に、一、二度通路で短かい言葉を交わしたんです」  泉が答え、寝台整理表というのは、ベッドの塞《ふさ》がり状態を示す一覧表だと説明を加えた。 「本多さんはいかがでしょう?」 「私は時刻までは……」 「トイレ付きの個室の話をされたのは、深夜零時近くじゃありませんでしたか?」 「ああ、そうでした。もう、車内が寝静まっている頃でしたから」 「間違いないでしょうか?」 「と、思いますが……」 「すみません、大事な点ですので、もう一度よく考えていただけませんか」  本多が心持ち首を右に傾け、視線を若月たちの胴のあたりまで下げた。  彼の答えを待っている間に、コーヒーが運ばれてきた。 「そうそう、京都へ着く三十分ほど前です。間違いありません」  本多が顔を上げて答えた。  若月は彼を見つめた。 「京都の次は名古屋に停まるのかと尋ねられ、名古屋には停まらない、次の停車駅は午前四時二十九分静岡だ、と申し上げた覚えがありますから」  本多が言葉を継いだ。 「そうですか」  若月はちょっと気落ちし、「で、それ以後はいかがでしょう? この男を見ていますか?」 「どうでしたでしょう……。その後はお寝みになっていたので、見かけてないと思いますが」 「東京駅着は、定刻通りでしたか?」 「はい、六時五十六分です」 「そのときは、どうでしょう? 降りるところを見ていませんか?」 「覚えていません」 「乗客が全員降りたかどうか、個室や寝台の点検は当然されるわけですね?」 「ええ、通路を歩きながら、ざっと」 「この男のいた五号個室に、何か不自然な様子はなかったですか?」 「不自然ね」  本多がつぶやき、また考える顔をして、ミルクと砂糖を入れたコーヒーを掻《か》きまぜた。 「外側の窓のカーテンが閉まっていたとか」 「レースのカーテンは閉まっていたかもしれませんが、厚いカーテンは開いていたと思いますよ」  もし厚いカーテンが閉まっていたとしたら、どこか途中で降りるとき閉めて行き、朝になっても開けられなかった、という可能性が高い。が、レースだけでは、閉めたままにする人が少なくないので、何とも言えない。  何もないか……と若月が諦めかけたとき、 「そういえば、ドアの窓にカーテンが引かれ、ドアも閉まっていたかもしれませんね」  本多がいま思い出したというように、言った。 「それらは、降りる人はみな開けて行く?」 「全員必ずそうするというわけじゃありませんが、ま、両方閉めたままという方はあまりいません。たとえドアは閉めても、カーテンは開けて通路から中が見えるようにして行きます」 「ドアのカーテンは、開けて行くというより、人が出入りすれば、わざわざ閉めないかぎり、多少開いているはずなんですよ」  泉が付け加えた。  若月は、胸がざわめくのを覚えた。  福知山で稲垣が降りた「出雲1号」の個室を、松江で車掌が調べたときの状態と同じだった。  列車が東京駅に着いたとき、高石は乗っていなかったのだ、と思った。乗っていないから、降りるとき、個室のドアのカーテンを開くこともドアを開けたままにして行くこともできなかったにちがいない。  泉と本多の証言から、高石が途中まで乗っていたのは明らかなので、どこかで降りたのだ。そのとき、終点の東京まで室内に人がいるように見せるため、ドアのカーテンを引き、明るくなってもホームから室内を見られないようにするため——それでいて不自然でないように——外側の窓のレースのカーテンだけ閉めて行ったのだろう。  若月は高石の供述を思い浮かべた。  ——明け方になって、うつらうつらしていたら、東京駅に着き、慌てて降りた。  彼はそう述べた。  あれは、朝、車掌に会わなかったことと、このドアのカーテンの不自然さを取りつくろうための言葉だったのかもしれない。  だが、慌てて降りたのなら、逆にドアのカーテンは多少開いているのが自然であった。  若月は、次いで、二号車の盗難騒ぎについて本多に確かめた。 「ありました」  と、本多が答えた。 「どういう騒ぎだったんですか?」 「二号車のB寝台に乗っていた女性の方が、座席に置いておいたハンドバッグを盗まれたんです。紙袋の中に入れてあったらしく、いつ盗まれたのか気がつかなかったんですが、荷物を置いたままトイレに立ったことがあったので、そのときじゃないか、という話でした。バッグは、すぐに同じ車両の端に付いた更衣室から見つかったんですが、五万円ほど入っていたという現金だけ抜き取られていました」 「被害者の女性はどんな方でしょう?」 「五十年配の太った方です」 「犯人は?」 「分かりませんでした。鳥取で乗ってきた鉄道警察隊の方がバッグを借りて行って指紋を採ったりしましたが、どうしようもなかったようです」 「騒ぎのあったのは、いつ頃ですか?」 「列車が米子を出て間もなくでしたから、七時前後でしたか」 「かなり大きな騒ぎだったんですか?」 「ええ。被害者の方がオロオロして、同じ車両内の誰彼なく訊いて回ったようですから。私が連絡を受けて二号車へ行くのとほとんど同時ぐらいに、乗客の一人によってバッグは見つかったんですが、お金がないと分かり、またひと騒動でした」 「被害者は子供みたいに泣かれたとか?」 「その通りです」 「他の車両からも、野次馬が集まったんですか?」 「多少は来たかもしれませんね」 「この写真の男も、そのとき二号車を通ったと言っているんですが、覚えていませんか?」 「さあ、私は被害者を落ちつかせるのに精いっぱいでしたから、そこまでは……」 「時刻が七時頃というのは、確かですね?」 「それは間違いありません」  若月たちはさらに本多と泉にいくつかの点を質問し、二人を残して先に喫茶店を出た。  駅まで戻り、大社線のディーゼルカーで大社へ向かった。 「少なくとも、奴が京都まで『出雲4号』に乗っていたのは確実なようですな」  一両きりのディーゼルカーの中で宮部が言った。  若月も同じことを考えていた。  高石は、翌朝六時五十六分、「出雲4号」が東京駅に着いたとき、乗っていなかった可能性が高い。  ということは、たぶん、京都で下車したのであろう。  だが、出雲4号の京都着は午前零時二十五分。  そんな時刻に降りても、夕方六時半まで皆生ビーチホテルにいたのが確実な佐江田緑を、死亡推定時間内の八時までに殺害するのは、絶対に不可能であった。 「これで、佐江田緑殺しは奴の単独犯行ではない、ということですか」 「たぶん」 「殺しは日下峰子、死体を日御碕まで運んで捨てたのは高石、というわけですね」  そう考えざるをえない。  しかし、そう考えたところで、もう一つ越えなければならない壁があった。  それは、 〈深夜の零時半に京都にいた人間が、山陰の日御碕まで緑の死体を捨てに行き、昼までに東京の出張所へ顔を出す手段があったかどうか〉  という点である。     5  若月たちは出雲北署へ帰ると、すぐに署長室へ行き、溝口ら主だったメンバーに、高石に対する尋問の経過、泉、本多両車掌の証言などを詳しく報告した。  副本部長である署長は、「高石が本当に犯人なのかね?」と疑問を示したが、溝口の見方は若月たちと同様だった。つまり、 〈緑を殺したのは、これまで彼女をホテルから誘い出しただけだと考えていた峰子であり、高石は緑の死体を日御碕まで運んで捨てた〉  という見方だ。  しばらく話し合った結果、署長も若月たちの意見に同意し、高石をいかに追い詰めるか、という具体的な方策の検討に入った。 「それには、大きくいって、二つの壁を越えなければなりません」  と、溝口が言った。 「〈アリバイ〉と〈証拠〉ですね」  若月は応じた。 「そうだ。まず、奴の犯行が可能だったことを示さなければ、どうにもならない。それから、奴が全面的に犯行を否認している以上、それを覆す証拠を見つける必要がある」 「証拠というのは、例えばどういうものかね?」  署長が訊いた。「高石が君島なり佐江田緑なり、あるいは稲垣か日下峰子なりを殺した証拠など、残っているかね?」 「直接の証拠を見つけ出すのは、かなり難しいでしょうね」  溝口が答えた。 「じゃ——?」 「高石は、稲垣との関係、峰子との関係を否定しています。まったく知らない人間だと言っています。それなら、彼らとの結び付きを突き止めれば、奴が重大な嘘をついていたことになり、奴の犯行を立証する状況証拠になります。  また、奴は、君島の友ヘルスアカデミーとの関わりも否定しています。ですから、このつながりをつかむことも、奴を崩す有力な武器になるはずです。  それから、これも犯行の直接的な証明ではありませんが、君島が殺された先月二十五日の夜、奴が会社にいなかった事実、稲垣と峰子が殺された今月十八日の明け方、自宅にいなかった事実、できればそのとき鳥取周辺にいた事実が分かれば、さらに、奴を追いつめることができます」 「なるほど」 「これらの全部を手に入れるのは難しいでしょうが、奴が犯人であるかぎり、いくつかは必ず何とかなるはずです。今や、的がはっきりと絞られたんですから」 「うん」 「それより、より大きな困難を予感させるのは、奴が主張した佐江田緑殺しのアリバイですね」 「だが、奴は京都で『出雲4号』から降りた可能性が高いわけだろう。それなら、私には、こっちのほうがまだ何とかなるような気がするがね」 「そうでしょうか。奴が相当な自信を持っているらしい点からも、私は一筋縄ではゆかない気がしているのですが」  若月も溝口と同様の危惧を抱き、早く時刻表を調べてみたい、と思っていたのだった。 「そうか……。ところで、日下峰子が佐江田緑を殺しただけでなく死体遺棄までさせられた、というセンは絶対にないわけだね?」 「これは、前にもお話ししてあるように、百パーセント不可能です。緑の殺された晩、峰子は二時間と人の目から離れていないんですから」 「うん、そうだな」  話はさらに具体的になり、溝口が初めに言った高石の犯行を裏づける状況証拠をいかに手に入れるか、という方法の問題に移った。  三十分ほどその話し合いが行なわれ、会議が済むと、若月は本部の部屋へ戻り、すぐに宮部と時刻表を繰った。  溝口は、部屋にいた部下たちに新しい指示を与えてから、若月たちに加わった。  三人でしばらく時刻表を調べ、検討したが、結果は危惧した通りだった。  出雲4号が京都に到着するのは、午前零時二十五分。  そこで、列車を降りても、山陰のほうへ向かう列車は、午前三時五十分の下り「出雲3号」までないのである。  この出雲3号が米子へ着くのは、九時四十一分。  これでは、米子近辺に置いてあったと思われる緑の死体を日御碕まで運ぶだけで、高石が東京の出張所へ現われた昼近くになってしまうのだった。  直接、山陰へ向かわなくても、山陽本線で岡山か倉敷、広島まで行き、伯備線か、芸備線・木次線で山陰へ出る、というルートもないわけではない。  しかし、京都で停車する山陽本線を西へ向かう列車は、零時十七分発の長崎・熊本行き寝台特急「みずほ」以後、一本もない。「富士」も「あさかぜ」も「瀬戸」も、京都だけでなく、大阪にも停まらない。  出雲4号の京都着が零時二十五分だから、零時十七分発の「みずほ」に乗れないのは明らかだろう。  京都に一番近い飛行場は大阪だが、深夜なので、飛行機は飛んでいない。  残るは、車だった。  京都に零時二十五分に降り、深夜、車を飛ばしたら、米子に何時に着けるだろうか。  交通|警邏《けいら》課からJAFに問い合わせてもらったりして調べたところ、京都・米子間の距離は約三百キロ。名神高速道、中国自動車道を経由し、岡山県の落合インターチェンジから国道181号線を米子まで北上しても、鳥取を経由してずっと国道9号線を行っても、距離はほとんど変わらない。ただし、時間はかなり違い、高速道路経由なら約五時間半、9号線経由なら七時間は見ておく必要があるだろう、という。  若月たちはここで当然、高速道路を利用したにちがいない、と考えた。  ところが、それを前提に検討し始めるより早く、交通警邏課員が慌てて部屋へ駈け込んできた。  今月八日、九日、十日の深夜十一時から午前五時までは、中国自動車道の大改修工事があり、兵庫県の西宮北インターチェンジと佐用インターチェンジ間の下り車線は全面通行止めになっていた、というのだった。 「両インターチェンジ間の距離は、高速道路で約九十キロありますから、その間、一般道へ降りて走ったとすると、早くても国道9号線経由と同じぐらい……西宮北インターチェンジで降りてすぐ国道176号線を北上し、福知山で9号線に入った場合は、さらにかかっただろう、という話です」  これだけの大改修工事になると、影響が大きいため、新聞に予告が載る。だから、高石はたぶんそれを見たのだろう。たとえ見ていなかったとしても、計画を立てる前に当然道路の事情について調べただろうから、九日の深夜は通れないことを知っていたはずである。というより、彼は、中国自動車道が通行止めになる予定を知ったからこそ、自分のアリバイ工作が完璧なものになると考え、その晩の犯行を計画したのかもしれない。  若月はそう思った。  そうでなければ、わざわざ高速道路が通行止めになる夜を選ばなかったにちがいない。  いずれにしても、若月たちは、高速道路経由のコースを捨てざるをえなかった。  となると、京都・米子間七時間とみて、米子へ着くのが朝の七時半。  米子から日御碕まで、渋滞を考慮に入れないで二時間。  これで、九時半。  午前九時から午後五時まで車両通行禁止の小道へ誰にも見咎《とが》められずに車を乗り入れて死体を捨て、すぐに引き返したとして、日御碕に一番近い出雲空港まで約一時間かかるから、十時半。  出雲空港から東京へ向かう飛行機は、午前九時五十分、午後一時三十五分、午後六時十分の三便だけである。  九時五十分の便は出た後なので、一時三十五分の便に乗ると、東京着二時五十分。もちろん、昼までに蒲田の出張所へ顔を出すことはできない。  京都・米子間をもっと飛ばし、六時間半で行けたとしたら、どうだろうか?  また仮に、米子・日御碕間で十分、日御碕・出雲空港間で十分、それぞれ短縮できたとしたら?  京都で、用意してあった車に乗るのが午前零時半は変わらない。  そこで、それに六時間半、一時間五十分、五十分を単純にプラスすると、出雲空港が九時四十分。  国内便飛行機の搭乗手続きはフライトの二十分前までとなっているが、キャンセル待ちの客で座席が埋まってしまわなければ、十分前でも乗れないことはない。  とすると、九時四十分なら、九時五十分発のJAS272便に乗れた可能性がある。  それが羽田に着くのは、十一時五分。  昼近くに蒲田の出張所へ現われるには、ぴったりの時刻だった。  では、これで、アリバイは破れたのだろうか?  確かに、結果からみれば、あるいは可能だったかもしれない。  だが、車を九時間以上走らせ、どこかで五分遅れたらどうなるのだろう? 死体を捨てるのに、近くに人がいて、四、五分手間取ったら、どうなるのだろう? 飛行機のチェックインを断わられたら、どうなるのだろう?  この〈九時四十分出雲空港到着〉というのは、松江周辺の渋滞も完全に無視し、ギリギリに縮めた机上の計算の結果である。しかも、この通りに動いたかもしれないと考えている男は、カーレースを楽しんでいるわけではない。殺人を犯し、必死でそのアリバイ工作をした男なのだ。  九時間も休みなく車を飛ばせば、事故を起こす可能性だって、低くない。ほんの小さな事故でも、その時刻にいるはずのないところにいた証拠が残れば、致命傷になる。  ……と考えれば、かなり冷静で用心深い(峰子や稲垣との関係が容易に分からない点から明らかだろう)高石が、こんな危険な橋を渡ったとは、到底考えられなかった。そんな冒険をするぐらいなら、何もアリバイ工作などしないほうが、はるかに安全であったろう。  高石は、十日の朝、出雲空港を九時五十分に飛び立つJAS272便には乗れなかった。乗らなかった。  そう見るしかない。  ところが、272便の後の東京行きの飛行機は、午後にならないと無い(他に大阪、福岡行きはあるが)。  山陰には、出雲の他に米子と鳥取に空港がある。が、いずれも東京行きの午前の便は九時三十分発の一本だけ。鳥取はもとより、米子も、出雲空港より日御碕から遠く、それに乗れるぐらいならJAS272便に乗れるので、問題外であろう。(地図参照)  そうなると、他に可能性のあるのは、九時五十分より遅く発つ飛行機で、大阪か福岡を経由する方法か、列車利用の方法である。  まず列車を利用した場合だが、出雲市を午前十時二十六分に出るL特急「やくも8号」に乗って岡山まで行き、岡山から飛行機か新幹線を利用するのが一番早い。  しかし、それでも、岡山へ着くのが午後一時四十六分なので、どうにもならない。  では、大阪、福岡へ行く飛行機ではどうか?  大阪行きの午前の便は、出雲空港が八時五十五分と十一時十分の二本。米子空港が九時五分の一本。  福岡行きの午前の便は、出雲空港が十時三十分の一本。米子空港は無し。  これらのうち、九時五十分より前の便ではどうにもならないので、残るは、ともに出雲空港から出る〈十一時十分発大阪行き〉と〈十時三十分発福岡行き〉の便だけ。  ところが、このどちらで大阪か福岡へ飛び、そこで東京行きの便に乗り換えても、羽田着は午後一時三十分以後になってしまい、もちろん昼までに出張所へ顔を見せることはできない。     6  高石のアリバイはまさに完璧だった。  しかし、若月たちは、回り回った結論として、高石が犯人であるかぎり〈出雲空港を九時五十分に飛び立つJAS272便で東京へ飛んだのは間違いないのではないか〉と考えた。  いろいろ検討して、高石はそれに乗れなかったという結果が出たのだが、彼が昼近くに東京蒲田へ現われている、という事実から逆に考えると、それしかない。  その便が、昼までに東京へ現われることのできるギリギリのセンなのだ。  それ(九時五十分)以後まで山陰にいたのでは、飛行機を利用しようと、列車を利用しようと、車を利用しようと、またどこを経由しようと、昼までに東京へ着く方法はない。  これだけは、確実なようだった。  もう一つ確実なのは、九日の夜〈高石が京都までは「出雲4号」に乗っていた〉という点である。  そうなると、推理の範囲、可能性の範囲はかなり絞られた。  零時二十五分に京都で出雲4号から降り、車を飛ばす以上に早く、安全に米子まで行く方法があった、ということであろう。  そう整理した結果を若月が説明したとき、 「ありますよ」  と、時刻表を見ていた宮部が言った。 「ある?」  溝口が宮部の手元を覗き込んだ。 「あ、いや、あるかもしれません」  宮部が言い変えた。 「どういう方法かね?」 「やはり、列車です」 「列車?」 「零時二十五分に京都に降りても、山陰のほうへ引き返す列車が三時五十分の『出雲3号』までなかったので、米子へ着くのが九時過ぎになってしまったんですが、その前の『出雲1号』があるんです」 「しかし、出雲1号は京都に停まらないだろう?」 「ええ。ですが、これで見ると、京都から九十キロ山陰に寄った福知山で停まります」 「そうか、福知山まで車で行き、それに乗るか」  若月は言った。 「そうです」 「だが、乗れるかね?」 「計算してみます。出雲1号の福知山着が午前二時五十九分、発が三時二分ですから、まあ三時とみればいいですね。  京都から米子まで、三百キロを七時間で走れるなら、九十キロなら二時間で何とかなるでしょう。  そうすると、零時二十五分に二時間を足して、午前二時二十五分。  多少計算よりかかったとしても、三時の列車なら乗れるんじゃありませんか?」 「なるほど」  溝口がうなずき、「で、出雲1号の米子着は?」 「えーと……七時七分です」 「七時七分か。すると、さっき、京都・米子間を六時間半で車を飛ばしたと考えたときより七分遅れだな」 「そうか、じゃ、だめですね」  宮部が、がっかりした声を出した。 「折角だが……これでは、米子・日御碕、日御碕・出雲空港と飛ばしても、空港に着くのは、272便の出る九時五十分ぎりぎりになってしまう」  確かにその通りだった。  しかし、若月は、京都から米子まで車を飛ばしたとみるよりは、こちらの可能性のほうがはるかに高い感じがした。  京都から福知山まで行って出雲1号に乗るのは、かなり余裕がありそうだし、何時間も車を飛ばすより安全である。  とはいえ、米子にあと三十分早く着いていなければ、日御碕まで佐江田緑の死体を運んで捨て、確実に出雲空港から272便に乗れる——という計画は立てられないはずであった。  若月が考えていると、 「朝、夜が明けた後、大阪か東京から、一番の飛行機で米子へ飛ぶ方法はないかね?」  と、溝口が言った。 「東京からの場合は、京都で出雲4号から降りなかったというわけですね?」 「そう」  溝口と若月が話している間に、宮部が時刻表を調べた。  そして、米子と出雲へ着く一番早い飛行機が八時四十分と八時三十分で、いずれも大阪からの便である、と伝えた。 「だめか。米子が八時四十分じゃ、宮部《みや》さんの言った出雲1号を利用した場合より、一時間半も遅いからな」  結局、若月たちは、今日のところは高石のアリバイを破るのを、諦めた。  そして、若月は遅い昼食をとってから小笠原と出雲空港へ行き、十日の272便(M87機・定員百三十四名)を利用した乗客全員百十三名の氏名、電話番号を調べてもらい、駈け込み搭乗した者がいなかったかどうか、尋ねた。  その便に搭乗勤務したスチュワーデスには会えなかったが、少なくともチェックイン・カウンターの職員の話では、この一ヵ月ぐらいの間にそうした駈け込み搭乗した客はいない、という返事だった。  若月たちは本部へ戻ると、百十三名の乗客のなかに偽名の男がいないかどうか、まず電話で問い合わせていった。  百十三名といっても、三分の二近い七十二人は東京からきた二つの旅行会社の団体客だったので、すぐに調べがついた。  添乗員もおり、そこに別の人間が紛れ込んでいた可能性はない、とみてよかった。  残りは、四十一名。  そのうち、女性が十五名、子供が七名いたから、成人男性は十九名。  山陰の電話番号を連絡先にして航空券を購入していた者は五名で、十四名は関東、東北、信越だった。  電話には本人、あるいは家族、あるいは会社の同僚が出た。  そして、夕方までに十六人が、さらに夜になって残りの三人が、十日の272便に乗っていた事実が確認された。もちろん、嘘をついている者がいる可能性は残ったが、少なくとも偽名や偽電話番号をつかって航空券を購入した者はいない、と判明したのだった。 「この十九人のうち、誰かが高石に頼まれて名前を貸し、乗っていないのに乗っていた、と嘘をついているはずだな」  若月の報告を聞いて、溝口が言ったが、若月は判断に苦しんでいた。  高石がそんな危険を冒したとは考えにくかったからだ。  それなら、若月たちが想像したように、架空の名前で乗ったほうが、彼だという決定的な証拠が残らなくて安全だったはずだろう。  ただ、いずれにしても、十九人については本人に会ってさらに詳しく質し、同時に、家族や同僚などから、九日から十日にかけて当人がどこにいたか訊いてみる必要がある、と思った。     7  警視庁と三つの県警本部の協力を得て、若月たちが十九人の乗客について再調査を終えたのは、二日後の二十六日(土曜日)だった。  結果は、高石に名前を貸したと思われる者は一人もいない——。  高石とつながりのありそうな人物もいなかったし、家族、友人、同僚などの証言から、十九人は実際に十日の272便に乗ったと見て間違いないようだった。  この結果が判明したとき、若月は、わけが分からなくなった。  出雲空港を午前九時五十分に出るJAS272便に乗らないかぎり、高石はその日、昼までに東京の出張所へ顔を出すことはできなかったのだ。これは、間違いない。  高石食品の東京出張所員には、岩崎に頼んで当たってもらった。  それにより、高石が十日出張所へ現われたのは、正確には昼近くでなく、正午を十分か十五分回った頃だったらしい事実が判明した。たぶん、高石が、少しでも早く見せようという心理から、昼近くと言ったのであろう。  しかし、正午を十分や十五分過ぎていようといまいと、272便以後の飛行機や大阪、福岡経由ではどうにもならない。これは、若月たちの調べにより明らかである。  では、高石のアリバイは完璧であり、彼は犯人ではないのか——?  ところが、アリバイ調査と並行して進められていた捜査により、若月たちの推理を裏づける事実がいくつか明らかになっていたのだった。  君島が境水道に突き落とされたと思われる先月二十五日の午後九時頃、高石は一人で会社に残っていた、と述べた。  だが、その頃、市議の一人が高石の自宅に電話をかけ、彼がまだ帰らないと聞き、会社へかけなおした。そして、かなりベルを鳴らしつづけたにもかかわらず、誰も出なかった——というのが一点。  峰子と稲垣が鳥取砂丘で殺されていた十八日の朝九時過ぎ、高石が車を自宅のガレージに入れているのを近所の主婦が見た——というのが一点。  これらは、高石にぶつけると、  ——電話に出なかったのは、トイレにでも入っていたんでしょう。十八日の朝は、前にお話しした通り、女房がいなかったので、近くのドライブインまでコーヒーを飲みに行ったんですよ。  と逃げられたが、もう一点は逃げようのないものだった。  彼が峰子のマンション「エスカイア山ノ手」へ行っていた事実を示す証拠が手に入ったのである。  マンションの峰子の部屋は、彼女が殺された直後、徹底的に調べられた。  そのときは、彼女の部屋へ出入りしていたのは稲垣だと考えられていたので、部屋から採取された指紋や髪の毛(指紋はほとんど拭き取られていたが)は、稲垣の指紋や髪の毛と照合された。  ところが、今度、高石が犯人だったらしいと分かり、改めて、高石のそれらとの照合が行なわれた。  その結果、彼の髪の毛と酷似しているものが数本あるのが判明した。  といっても、それだけでは、決定的な証拠とはいえない。  が、岩崎がもう一度マンションを訪ね、管理人と取りとめない話をしているうちに、半年ほど前、峰子が浴室の換気扇の具合が悪いと言っていた事実を聞き込んだ。  ——それが土曜日の午後だったので、月曜日になってから、修理人を呼んで一緒に部屋へ行ったんです。  管理人はそう話したらしい。  ——ところが、日下さんは、もういいと言うんです。で、どうしてか、と訊くと、「ネジが緩んでいただけみたい。ちょうどお友達が来ていたから、見てもらったの。そしたら五分ぐらいで直ったわ」と答えたんです。  この話を聞いたとき、岩崎はピンときた。日曜日でもあるし、もしかしたら、友達というのは高石ではなかったか。  彼はそう考え、駄目で元々と思い、鑑識課員に頼んで、管理人立ち会いのもとに換気扇から指紋を採取してもらい、それを若月たちに電送してきた。  すると、まさに岩崎の読み通り、そのうちの二つが、高石の指紋に完全に一致したのである。  若月たちは、今度は高石を本部へ呼び、厳しく追及した。  さすがの高石も、指紋の証拠を突きつけられたときは、一瞬顔から血の気が失せた。  しかし、彼は、若月たちの想像していた以上にしぶとく、したたかだった。  すぐに立ち直り、自分の指紋が一度も行ったことのないそんな部屋に付いていたなんて想像できない。もし、本当にそれが自分のものなら、誰かの奸計だ、と言い出した。  何かに付着している指紋を写し取り、それを製版して指紋の「ハンコ」を作ることもできる、と新聞で読んだことがある。だから、それは誰かが自分を陥れるために、似たような工作をした結果に違いない——。  そして、最後は、若月たちがアリバイを崩せないでいるのを知ってだろう、どうしても自分を犯人だと決めつけたいのなら、自分が三人を殺したという証拠を見せてくれ、佐江田緑については、殺害が可能だったという事実を示してくれ、と居直った。  若月たちは歯噛みした。  あらためて、アリバイの壁の厚さを思い知らされた。  峰子の部屋に高石の指紋があったというだけでは、逮捕状は取れない。  仕方なく、彼を放免した。  とはいえ、この指紋という証拠によって、若月たちの心証は、〈百パーセント高石クロ〉になった。これまでは、彼が犯人だと思っても、若月たちの心には多少の迷いが残っていた。それが、完全に消えたのである。  若月はその晩、東京の壮のアパートへ電話をかけた。  勝部長刑事か岩崎刑事から、だいたいのところは聞いていると思うが、ほとんど壮の推理した通りだった——と言って、先日の礼を述べたのである。 「忙しさに取り紛れ、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」  そう言ったものの、彼が電話をかけた本当の目的は違っていた。  壮が、その後の状況を訊いてくれないか、と期待したのだ。  自分から相談をもちかけるのは、抵抗があった。が、尋ねられれば説明してもよい、と考えた。そうしておけば、現在、若月たちが突き当たっている壁を乗り越えるヒントを、また与えてくれるかもしれない……。  この若月の予想は当たった。  壮は、高石には鉄壁のアリバイがあるそうだが、と訊いてきた。  そこで、若月は、自分たちの推理とこれまでに判明した事実について、詳しく説明した。     8  若月から電話を受けたとき、美緒も高円寺の壮のアパートにいた。  土曜日だったが出勤し、午後、壮と映画を観た。そして、買い物をして帰り、恋人を栄養失調にさせないため、夕食を作ってやっていたのである。  若月から電話がかかったのは、だいたい料理ができ上がり、さて食べようというときだった。  話の様子から相手が誰か分かったので、美緒は一時間近く寄せ鍋の火を止めて待ち、電話が終わってからもう一度温め、豆腐と牡蠣《かき》を入れて食卓へ運んだ。  壮の手元のレポート用紙は、五、六枚、メモでいっぱいになっていた。  彼はそれらを繰りながら、頭で若月の話を整理しているらしかった。 「やはり、アリバイが破れないみたいね」  美緒は、炊きたての麦御飯をよそってやりながら、言った。  昨日勝から壮に電話があり、だいたいの事情は美緒も聞いていた。だから、若月に対する壮の受け答えの仕方で、話の内容は想像がついたのだ。 「ええ」  と、壮が目をレポート用紙に向けたまま答えた。  こうなったら、大好きな玩具を与えられた子供、アイドル歌手の歌に手を上げ体を揺すっている女子中学生、苦境を脱出しようとして懸命に手を読んでいる碁打ち……と同じである。  つまり、自分が心をとらえられているもの以外は眼中にない。  折角腕をふるった(というほどのものじゃないが……)料理も、きっと味など分かったものではないわ、と美緒は思う。 〈ポン酢のなかに唐辛子でも沢山いれたら、気づくかしら?〉  美緒は実験してみたくなったが、それだけは可哀そうなので、よした。 「いただきます」  と美緒が言うと、壮も聞き取れないようなもそもそした声で同じように言い、食べ始めた。  一応レポート用紙は脇に寄せたが、顔は上の空の感じである。  そこで、美緒は、唐辛子のかわりに熱い豆腐を彼の小鉢に取ってやった。  だが、テキはやはり宇宙人だった。  それを熱々の御飯に載せたかと思うと、一口で食べてしまい、目を白黒させて体をよじったが、自分がそうしたことさえ気づいていない様子だ。  相変わらず、何かを考えつづけている目をしていた。 「いま、どうしたの?」  美緒は訊いた。 「えっ、何でしょう? 僕が何かしましたか?」  テキがやっとまともに美緒を見た。 「熱くなかった?」 「ああ、そういえば、このあたりが少し熱かったような気がします」  食道のあたりをさすって、言う。 「美味しい?」 「美味しいです」 「なによ、味など分からないくせに」 「いえ、分かります」 「じゃ、いま、何を食べたの?」 「…………」  美緒は諦めた。  これぐらいで腹を立てていたのでは、この宇宙人と末永く一緒に暮らしてゆくことはできない。 「いいわ、もう」  と、彼女は言った。「早く食べてしまいましょう。あなた、アリバイの謎を考えたくて仕方がないんでしょう? 私が後片づけをしている間に、ゆっくり考えて」  美緒だって、謎に興味がないわけではない。それどころか、大いに興味がある。テキもそのへんは知っていて、食事が終わり、美緒が後片づけをしてテーブルへ戻ると、彼女にも分かりやすいよう、事実や推理を整理しておいてくれた。  まず、九日の夕方から十日にかけての、佐江田緑、高石将人、日下峰子の行動—— ≪緑≫——夕方六時半、峰子とともに「皆生ビーチホテル」を出たのは確実。死亡時刻はそれから八時までの間。 ≪峰子≫——高石の共犯らしいと分かり、それまで彼女が言っていた話は、信用できない。が、六時半に緑とビーチホテルを出て、七時半頃一人でホテルへ戻ったのは確か。それから、翌十日の朝まで、スナックで酒を飲んだり、腹痛がすると言ってフロントに薬を貰いに行ったりして、つづけて一時間半以上は一人だけでいた時間がない。  朝食後は、タクシーで松江温泉のTホテルへ直行。緑と自分の荷物を預け、待たせておいたタクシーで出雲大社まで行った。タクシーを捨てたのは、十一時頃。以上は、ビーチホテルの従業員、タクシー運転手、Tホテルの従業員の証言から確実である。  その後、出雲大社にお参りして割子ソバを食べ、一畑電鉄の電車で松江へ戻り、城を見物したり、緑と一緒に行くはずだった友ヘルスアカデミーを見に行ったりしていた、という。 ≪高石≫——夕方五時二十四分、出雲市から寝台特急「出雲4号」の一号車五号個室に乗り、京都の直前まで乗っていたのは、彼が目撃したという隣り二号車のハンドバッグ盗難騒ぎや、車掌の証言から明らか。  翌朝、列車が東京駅に着いたとき、五号個室のドアとドア・カーテンが閉められたままになっており、彼は乗っていなかった可能性が高い。  列車が京都に着く前——午前零時頃——車掌と話して以後、第三者の目によって彼の姿が確認されているのは、十日の正午を十分か十五分過ぎた頃、蒲田の高石食品東京出張所において。  次に、若月たちの推理と、それがうまくゆかなかった事情——    ◎ 深夜零時二十五分に京都に着くまで「出雲4号」に乗っていた高石には、夕方六時半に皆生温泉にいた緑を八時までの間に殺せない。だから、緑の首を紐で絞めて殺したのは、一緒に「散歩」に出た峰子であり、峰子が七時半頃にはホテルへ帰っている事実から、死体は近くに駐めた車のトランクに隠しておいた、と考えられる。  ◎ 峰子の所在が第三者によって確認されていない時間は、九日の夜から十日の朝にかけては、最長一時間半しかない。あとは、出雲大社でタクシーを捨てた十日の午前十一時以後。  皆生温泉・日御碕間は、車で往復するのに、短くみつもっても四時間かかるので、峰子には深夜、緑の死体を遺棄するのは不可能である。  また、死体の発見されたのが十日の午後一時半頃なので、十一時に出雲大社でタクシーを降りた以後の所在が曖昧でも、そのとき皆生温泉まで戻り、死体を日御碕まで運んで来ることはできなかった。  ◎ 以上から、皆生温泉の近くに置いておいたと思われる緑の死体を日御碕まで運んで捨てたのは、十日の午前零時頃から昼十二時過ぎまで第三者に所在が確認されていない高石だった、と考えられる。  ◎ しかし、彼が京都で「出雲4号」から降りて山陰へ引き返し、死体を捨ててから東京へ行った場合、どんなに早くても羽田へ着くのが午後一時半になってしまう。  ◎ 京都で午前零時二十五分に「出雲4号」から降り、米子へ最も早く確実に戻るには、京都から福知山まで車で移動し、福知山で「出雲1号」に乗る方法だったと思われる(中国自動車道が改修工事で通行止めになっていたため)。  しかし、それでも米子に着くのは、七時七分。それから車に乗り換えて日御碕まで行って死体を捨て、出雲空港へ着ける時刻は、車に乗り換える時間や死体を捨てる時間を無視し——実際は絶対に無視できない——、道路事情が極めて順調だったと仮定しても、九時五十分。  これでは、東京蒲田に正午前後に現われうるぎりぎりの便だったと思われる、出雲空港午前九時五十分発のJAS272便に乗れない。  ◎ 九時五十分を過ぎて山陰にいては、いかなるルートの飛行便、列車を利用しても、正午を十分か十五分過ぎた頃、蒲田の出張所へ顔を見せることは不可能である。  ◎ そこで、高石が乗れなかったはずの十日九時五十分発の272便に、もし偽名の男の乗客がいれば、彼が何らかの策をつかって乗った可能性があると逆に考え、乗客について調べた。だが、偽名の男の乗客、高石に名前を貸したと思われる乗客は、存在しなかった。     9  美緒が、レポート用紙に整理された事項に目を通すのを待って、壮が詳しい説明をしてくれた。  それにより、美緒にも、若月たちの直面している困難、彼らの戸惑いが、よく理解できた。高石と峰子を結ぶ〈指紋〉という証拠が見つかったにもかかわらず、高石のアリバイのほうは、検討を加えれば加えるほど完全になってしまうらしいからだ。  美緒は、壮の説明を聞いた後で、 〈それで、若月刑事は、先日の礼と称して壮の頭脳を借りようとして電話してきたんだわ〉  と思いながら、あらためてレポート用紙に目をやった。  これだけの餌(謎)があれば、壮という魚が熱い豆腐を飲み込んだのも気づかずに食らいつくはずであった。 「で、何か分かったの?」  美緒は顔を上げて、訊いた。 「分かりません」  と、彼女の恋人が首を横に振った。 「あなた、時刻表を見ていたようだけど、京都から米子へ戻るのに、『出雲1号』を利用するより早い方法はないの?」 「ないみたいですね」 「出雲から東京へ来るのに、九時五十分の272便以後の飛行機で、お昼前後に着けるのは?」 「ないようです。それらの点は、若月さんたちが漏れなく検討されているようです」 「それじゃ、どうなるのかしら? 高石という人には、佐江田さんの死体を日御碕まで運んで捨てることはできなかった——という結論になってしまうわね」 「そうなんです」 「といって、日下峰子という人にも、そうする時間はなかったわけだし……」 「ええ。彼女の行動を見ていると、自分には絶対に運べなかったんだぞ、と意識的に示しているようです。午前四時近くまで外でお酒を飲んでいたり、明け方、お腹が痛いと言ってフロントに姿を見せたり、松江のTホテルへ荷物を運んだタクシーを待たせておいて、出雲大社まで行ったり……」 「そういえばそうね。松江温泉からなら、一畑電鉄の電車が出雲大社前まで行っているのに、高い料金を払って、待たせておいたタクシーを利用したなんて、不自然だわ。  これは、彼女一人では、佐江田さんを殺して死体を日御碕まで運んで捨てるのは絶対に不可能だった——その事実をはっきりさせるための行動ね?」 「そうだと思います」 「ただ、そうした行動が意識的ではあっても、彼女が運べなかったのは確かよね。としたら、高石という人が運んだとしか考えられないわけだけど……彼にも不可能だった?」  話は元に戻った。 「ええ……」 「どうしたらいいの?」  壮が首をひねった。 「これじゃ、高石という人は犯人じゃない、という結論になってしまうけど」 「いえ、彼は犯人です。彼が佐江田さんの死体を日御碕まで運んだんです」  壮が珍しく強い調子で断定した。 「それは、私だってそう思うわ。日下という人のお部屋に彼の指紋があったというし」 「他にも、いま話したように、日下峰子が、絶対に死体を日御碕まで運べなかったというアリバイ作りをしているのが、その証拠です。高石は日下峰子を犯行に引き込むとき、〈殺せても死体を運べなかった証拠を作っておけば危険はない、警察の追及から逃れられる〉——そう言って説得したにちがいないんです。そうでなければ、日下峰子が明け方までスナックにいたり、腹痛を装ってフロントに姿を見せたりするはずがありませんから。  そうしておいて、自分には佐江田さんを殺せなかった状況を作り、さらに、�死体を捨てるのも無理だった�と思わせる巧妙なアリバイ工作をしたんです。たぶん、中国自動車道が通行止めになるという予定を知ったうえで」 「ということは、どんなに不可能なように見えても、彼は佐江田さんの死体を日御碕まで運んで捨て、お昼前後に東京へ現われることができた——というわけね」 「そうです」  問題はよりいっそう整理された。  美緒も、壮の言う通りにちがいない、と思う。  とはいえ、困難は一つも減らなかった。  朝九時五十分過ぎまで出雲周辺にいた高石には、正午を十分か十五分回った頃までに東京へ来る手段は、見当たらないのである。  また、「出雲1号」より早く京都から米子へ戻る交通手段が存在し、死体を捨てて九時五十分のJAS272便に間に合う方法が、もし見つかったとしても、その便に彼らしい男の乗った形跡はないのである。  つまり、高石のアリバイを破るには、二重の困難が横たわっているのだった。 「難しいわね」  美緒は言った。 「ええ」  と、相棒が答えた。  だが、彼はすぐに、 「ですが、犯人が考えたことなら、僕らにもいずれ分かると思います」  特に困ったふうもなくつづけ、 「それより、そろそろ送ります」  と、立ち上がった。     10  美緒が壮に送られ、西荻窪駅に降りて歩き出した頃、赤坂にあるクラブ「パープル」に一人の客があった。  品川で整形外科の医院を開いている大浜という初老の男である。  顧客というほどではなかったが、年に四、五回は顔を見せ、日下峰子が生きているときは彼女を贔屓《ひいき》にしていた。  ママの安藤靖江が挨拶して脇に付くと、大浜はすぐに峰子のことを話題にした。  新聞で見てびっくりした、人は見かけによらないものだ、といった話であった。  靖江は、自分も驚いていると言ってから、一昨日も刑事が来たが、どうやら峰子は佐江田緑殺しの共犯の疑いを持たれているらしい、と話した。 「共犯? 彼女は利用されて殺されただけじゃなかったのかね?」  大浜が興味を示した。 「何だか、前に新聞に出ていたのとは、全然違う事件みたいなんです」 「全然違うって、どういうふうに?」 「犯人も、稲垣という大学教授のお医者さんじゃなくて、別の人じゃないか、という疑いが出てきているみたいなんです」 「ほう」  大浜の目がますます光り出した。「どういうことだろう?」 「私も詳しい事情は知らないんですけど、警察が調べなおしているようなんです」  一昨日、訪ねて来たのは、岩崎という警視庁の刑事である。彼は、松江で会社を経営しているというある男の写真を見せ、店に来たことはないか、と訊いた。もしかしたら君島と一緒に来たかもしれない、というのだ。が、靖江は記憶がなかったのでその通りに答えたのだった。 「日下さんが共犯じゃないかというのは、具体的には何をしたのかね?」  大浜がさらに訊いた。 「はっきりとは分かりませんけど、佐江田さんていう人の首を絞めて殺したのがユキエちゃんじゃないかって疑っているみたいでした」  靖江は声をひそめて答えた。 「彼女が実行犯?」  大浜が思わずといった感じで声を高めてから、すぐにそれをおとし、「いくらなんでも、あの娘《こ》にそこまでできるかね?」 「私もそう言ったんですけど」 「うん、待てよ、その事件は確か二週間ほど前だったね?」 「九日の夜です」 「じゃ、無理だよ。いや、死体を調べた医師に訊いてみなければはっきりしたことは言えんが、ママも、彼女がその前に左肩を脱臼していたのを知っているだろう?」 「ええ、先生に診ていただいているとか、言ってました」 「そう。二週間前だったら、だいたい治ってはいたんだが……しかし、それにしたって人の首を絞めて殺すというのは、相当な力が必要だからね。九日には、彼女、まだそんな力は出せなかったはずだ。もし、気を失っている相手なら、何とかなっただろうが、そうでなかったら、当然激しい抵抗だってあったはずだし」 「でしたら、少なくとも、ユキエちゃんが自分の手で人を殺したなんてありえない、ということですわね」 「肩の脱臼がなくたって、女性の力じゃ難しい。だから、十中八九、首を絞めて殺したのは男だろうな。いずれにしても、これは警察に知らせたほうがいい。そして、再調査してもらうんだ。たとえ、彼女が犯人の片棒を担いでいたにしても、やってもいない殺人の実行犯にされたんじゃ、可哀そうだからね」 「分かりました。それじゃ、明日さっそく知らせます」  靖江は答えた。  なんだか、気持ちが少し軽くなっていた。 第八章 特急・13時間32分の盲点     1  二十八日(月曜日)、若月は小笠原とともにJAS272便で上京した。  警視庁の岩崎から、佐江田緑を殺したのは峰子ではなく高石ではないか、という連絡を受けたのは昨日の昼近くである。  パープルのママ安藤靖江から岩崎に電話があり、峰子は当時、左肩の脱臼を治療中であり、とても人の首を絞めて殺せる状態ではなかった、というのであった。  それを聞き、若月たちは、緑の遺体を解剖したS医大の助教授を休日中の自宅まで訪ね、説明を受けた。  死体にほとんど抵抗した跡がない点、麻酔薬や睡眠薬等をかがされたり飲まされたりした形跡がない点、かなり強い力で一気に絞められたらしいといった点——を、若月たちは前に聞いていた。  それでいながら、殺害に関する高石のアリバイに疑問の余地がなかったため、それは峰子が担当したのだろう、と解釈した。強い力で絞められたらしいといっても、油断をみすませば女性にだって不可能ではない、と考えたのである。  解剖医は、若月たちのそうした勝手な判断を戒めた。女性だって様々であり、体力・筋力のあるプロレスラーのような女性なら可能だったかもしれない、という。が、普通の筋力しかない女性には、相手に抵抗するひまを与えずに一気に絞め殺すなんてほとんど不可能であり、ましてや、肩の脱臼が事実なら、その女性は問題なく容疑圏外だ、というのであった。  若月たちは、ここで、これまでの壁に加え、さらに堅固なもう一つの壁に阻まれることになってしまった。  高石が緑の死体を日御碕まで運んで捨てた可能性さえ証明できないでいるのに、彼が自分の手で緑を殺した事実をも明らかにしなければならなくなったのである。  解剖医の話を本部へ帰って伝えても、峰子が実行犯じゃない可能性なんてあるか、という者もいた。  少なくとも京都までは「出雲4号」に乗っていたのが確実な高石に、六時から八時までの間に緑を殺せたはずがない。それでいて、峰子にも殺せなかったとなると、高石は犯人ではない。あるいは、彼には、峰子以外の共犯者がいたか、である。  しかし、いずれの可能性も認めるわけにはゆかない、というのであった。  若月だって、半ば同じ思いである。  高石が犯人であるのは確実だったし、峰子以外にどこの誰だか分からない共犯者がいれば、その人間に死体の遺棄もさせれば済んだはずである。それなら、彼は京都を過ぎてからも車掌に姿を見せ、東京出張所にもっと早く出社して、アリバイをより完全なものにしていたであろう。  とすれば、やはり、峰子が何らかの手段を弄して緑を殺したのだ、と考えたい。  だが、そうした願望まじりの想像の一方で、峰子の肩の脱臼が事実なら、解剖医の話は認めざるをえない——彼はそうも考えていたのだった。  そこで、いずれにしても、峰子の当時の状態について、大浜という整形外科医から詳しい話を聞く必要がある、溝口とそんなふうに話し合い、上京したのである。  羽田には、定刻の十一時五分より十分遅れの十一時十五分に着いた。  前に二度来たときと同様、空はよく晴れていた。  今年は八月、九月に雨が多かった分、十月以後は晴れの日が多いようだ。  東京まで来たついでに、蒲田にある高石食品東京出張所までどれぐらいかかるかを調べてみることにし、タクシーに乗った。  蒲田二丁目にある小さな雑居ビルの前に着いたのは、十一時四十分。乗ってから十二、三分で運んでくれた。  十日の272便は定刻通りに羽田に到着していることが、分かっている。  それなら、もしその便に高石が乗って東京へ来ていれば、十一時半には出張所へ顔を見せていただろう、と若月は思った。  初め、若月たちは、高石が正午前後に出社したという事実から(正午を十分か十五分過ぎていたと分かってからも)、高石の乗ったのはJAS272便にちがいない、と考えていた。その便を逃すと、どんなに早くても羽田着が午後一時半になってしまうからである。だが、272便の乗客調べに加え、今の簡単な実験から、彼がその便に乗っていなかったのはいっそう確からしい、と判明した。  一刻も早く出張所へ顔を見せ、アリバイを確実なものにしたい犯人が、十一時半に着けるのを、わざわざ十二時十分か十五分過ぎまで引き延ばすわけがないからだ。  若月と小笠原はそうした点を話してから、ビルの二階にある出張所へ寄った。  電話と書類立ての載ったスチール机が四つ並んでいるだけの狭い部屋であった。  営業マンたちは外出中らしく、先日岩崎が話を聞いたという三十歳前後の女子事務員が一人、電話番をしていた。  若月たちは、十日、高石の現われた時刻が十二時十分から十五分過ぎに間違いない点を、彼女に確認した。  若月の頭に一つの考えが閃いたのは、出張所を出て、JR蒲田駅へ向かって歩いているときである。  彼は立ち止まった。  小笠原も足を止め、どうしたのかと問うように振り向いた。 「小笠原君」  と若月は呼びかけた。「いまのタクシーの実験から、あることを思いついたよ」 「何でしょう?」  小笠原が歩を戻して寄ってきた。 「十日、高石が羽田から出張所へ直行したのは間違いないと思うが、どうだろう?」  若い相棒と並んで歩道の端へ寄りながら、若月は言った。 「間違いないと思いますが」 「としたら、奴が出張所へ現われた十二時十分ないし十五分から逆算すれば、羽田へ着いた時刻が分かるんじゃないかね」 「そうか! つまり、奴の乗って来た飛行機の見当がつく、というわけですね?」 「うん。出発地はどんなに範囲をひろげても、出雲、米子、鳥取、隠岐、大阪、福岡のいずれかしかない」 「じゃ、早速、調べてみましょう」  ちょうど昼だったので、二人は目にとまった中華料理店に入り、野菜炒めライスを注文した。 「飛行機の遅れを考慮しても、十一時から十二時までの間に羽田へ着く便を調べればいいですね」  言いながら、小笠原がボストンバッグから時刻表を取り出し、開いた。 「隠岐から東京へ来る便はありませんし、出雲、米子、鳥取から東京へ来る便で十一時台に羽田に着くのは、我々の乗ってきたJAS272便以外にありません。  あと、大阪と福岡からの便ですが……大阪からのJAL110便が十一時五十五分に、福岡からANA248便が十一時三十分に、着いています」 「十一時五十五分と、十一時三十分か……。五十五分のほうは定刻通りに着けば、ぴったりだし、三十分のほうも少し延着したとすれば、やはり計算が合うな」  若月は応じ、「で、大阪か福岡でそれらの便に乗り換えるには、出雲か米子を何時の便に乗ればいい?」 「JAL110便の大阪発が十時五十五分、ANA248便の福岡発が十時ですから……」  小笠原が時刻表を見ながら、「ANA248便に間に合うよう、山陰から福岡へ飛ぶ便はありませんね。一方、JAL110便に間に合うように大阪へ行く便は、出雲発八時五十五分のJAS610便、米子発九時五分のJAS670便、の二つがあります」 「それら二便の大阪へ着く時刻は?」 「JAS610便が九時五十五分、JAS670便が十時ジャストです」 「すると、東京へ来る大阪発十時五十五分のJAL110便の出発まで、いずれも約一時間の待ち合わせか。これなら、多少延着しても、間に合うな」 「はい」  若月はここで手帳を出し、   出雲    大阪   8:55—→9:55(JAS610)   米子    大阪   9:05—→10:00(JAS670)   大阪    東京   10:55—→11:55(JAL110)  と書いた。 「十一時五十五分に羽田に着き、すぐタクシーに乗れば、出張所へ着くのがまさに十二時十五分頃、ドンピシャリですね」  小笠原が若月のメモを覗き込み、心持ち興奮したような声で言った。 「そうなんだが……これだと、いずれも、九時五十分のJAS272便より、山陰を出るのが一時間近く早いんだ」 「そうか、そうですね」 「で、我々はこれまで、そうした便を問題にしなかったわけだが……」 「九時五十分の272便にさえ乗れなかったはずなのに、それより一時間も早いんじゃ、到底乗れませんね。結局、だめでしたか」  小笠原ががっかりした声を出した。  が、若月の思いは小笠原と多少違った。  272便より早い時刻の便というのは、意外に盲点ではなかったか、という気がしだしていた。  それに、高石が犯人であるかぎり、272便に乗っていなければ、これらを利用したとしか考えられないのだ。しかも、十二時十五分頃、出張所へ現われたという事実とも符合している。  そう考えたとき、彼は、 〈そうか!〉  と思った。 「小笠原君、高石が『昼近くに出張所へ顔を出した』と言った理由が分かったよ」 「……?」  若い相棒が、怪訝な顔を若月に向けた。 「あれは、奴が十分に計算して口にした言葉だったんだ。まさか、事務員が十二時十五分頃という、自分が現われた正確な時刻を覚えているとは予想しないからね。つまり、〈昼近く〉と言うことによって、我々の注意を272便に引き付け、大阪から十一時五十五分に着くJAL110便へ目を向けさせないよう仕向けていたんだよ」 「それじゃ、奴は、やはりこの110便で?」 「うん」 「ですが、それには、出雲か米子発が一時間も早く……」 「ま、待て」  若月は小笠原の言葉を抑え、「これまで我々が考えたかぎりでは、奴は出雲を午前九時五十分に飛び立つ272便にも乗れなかったんだ。だったら、一時間早かろうが遅かろうが、乗れないという点では、272便も、610便も、670便も、変わらんじゃないか」 「……?」 「つまり……逆に考えれば、272便に乗れる方法——京都から米子へこれまで考えていたのより早く戻る手段——が見つかれば、610便か670便にも乗れたかもしれん、ということだよ」 「分かりました」  小笠原が納得したらしい顔でうなずいたとき、野菜炒めライスが運ばれてきた。  そこで、若月たちは腹ごしらえをしてから溝口に電話をかけ、十日のJAS610便か670便の乗客のなかに、さらにJAL110便の乗客のなかに高石らしい男がいなかったかどうか、早急に調べてくれるよう、頼んだ。     2  品川の大浜整形外科医院を訪ねて聞いた話は、予想通りだった。  緑の死体の状況を若月が話し、峰子に殺害が可能だったかどうか尋ねると、  ——それじゃ、日下さんには絶対に無理ですね。  と、大浜は答えたのである。  髪が九分通り白くなった、温厚そうな男だった。  ——肩の具合はどうだったんでしょう?  若月は質問を継いだ。  ——だいたい治ってはいたんですが、もしそれだけの力を出したら、またおかしくなったのは確実ですね。いや、相手に抵抗するひまも与えず、瞬間的にそれだけの力を出すなんて、不可能でしょう。  それに、私の知るかぎりでは、あの娘には人の首は絞められんですよ。悪い男に夢中になり、騙されたとしても、直接自分の手で人殺しをするなんて……。ま、手引きをしたり、死体の運搬ぐらいはやったかもしれませんが。  やったかもしれないという死体の運搬は、やっていないのが明らかなのである。  若月たちの欲しいのは、峰子が殺人の実行行為者になりえたかもしれない、という返事であった。  しかし、解剖医の説明と大浜医師の話を合わせたとき、若月たちは、 〈緑を殺したのは峰子ではない〉  と結論せざるをえなかった。  羽田から実際にタクシーで蒲田まで行ってみて、推理は一歩前進した。  十日の朝、高石が利用したと思われる飛行機の見当がついたからである。  だが、そのすぐ後、予想していたこととはいえ、大きな障壁にぶつかってしまったのだった。  若月たちは大浜医院を出ると、バスで品川駅へ戻った。  さて、どうするか、と思うが、当てがない。  上京の目的には、パープルのママ安藤靖江の訪問も入っていたのだが、今更彼女を訪ねたところで仕方がないだろう。  若月の内心は、壮に会って彼の考えを聞きたいのだが、適当な口実がない。小笠原の手前、言い出しにくい。  とにかく、溝口に報告の電話を入れ、乗客名簿に関する調査がどうなっているか、訊いてみた。  JAL110便は定員が三百人以上のD11機なので、調査に時間がかかるだろうが、JAS610便とJAS670便は、定員六十四名のYS機なので、もしかしたら何らかの結果が出ているかもしれない、と思ったのだ。  案の定、それは出ていた。  若月の話を聞いた後で、 「まだ途中だが、出雲空港を八時五十五分に飛び立ったJAS610便に、連絡不能な男の乗客が少なくとも一人いた、という事実が判明したよ」  と、溝口が言ったのである。 「航空券を買うときに言った電話番号が、出鱈目だったわけですね?」 「そう。自称、大阪府枚方市に住む野田明という三十八歳の男だ。電話で申し込み、大阪駅の旅行センターで券を受け取っている。で、その住所地に電話したところ、相原という別人が出て、野田などという男は知らないし、自分も家族も出雲からの飛行便の申し込みをした覚えはない、と言うんだ」 「大阪から東京へ来るJAL110便に、同じ野田明という名はないんでしょうか?」 「早速調べてもらったが、残念ながら、なかった。乗り継いだとしても、別の偽名を使ったんだろう」 「用心深い奴のことですから、当然そうですね。で、相原という人は、高石将人か高石食品にも関係がないんですか?」 「知らないと言っている」 「高石が航空券を申し込むとき、口から出まかせの電話番号を言ったんですかね」 「あるいは、何かで目にした番号だな」  溝口が答えてから、ところで、と少し語調を変えた。「ツキさんたちは、これからどうするつもりかね?」 「折角ですから、警視庁へ寄ってみます」  若月は答えた。「ですが、特に用事があるわけじゃありませんから、東京近辺に住む乗客のなかに直接当たったほうがいい人間がいたら、先に訪ねますが」 「そうか。だったら、少し遠いが大阪へ行ってくれないか。こちらから、誰か行かせるつもりでいたんだが、東京のほうが早いだろう」 「相原という人でも訪ねるんですか?」 「いや、JAS610便と、JAL110便のスチュワーデスに会ってもらいたいんだ。両便のスチュワーデスは、夕方なら大阪空港にいる、という話なんでね」  もちろん、スチュワーデスに高石の写真を見せ、似た男が乗っていなかったかどうか訊け、というのである。 「JAS670便のスチュワーデスは?」 「これは、明日、米子空港でつかまえられそうなんだ」 「分かりました。それじゃ、これから新幹線で大阪へ行き、今夜か明日、そちらへ帰ります」  若月は言い、電話を終えた。  そして、小笠原に事情を説明しながら山手線で東京駅まで行き、二時四十四分の「ひかり351号」で大阪へ向かった。  しかし、彼らは大阪から出雲へは帰らず、その晩のうちにまた東京へ戻った。     3  東京駅の八重洲口から五分ほど歩いたところにある、前と同じビジネスホテルに泊まった若月と小笠原は、朝八時にホテルを出、蒲田へ行った。  ゆっくり歩いて時間を調整し、九時五分前に高石食品東京出張所を訪ねた。  彼らは、大阪で重要な手掛かりをつかんでいたのである。  出雲・大阪間と米子・大阪間のJAS610便と670便に関しては、成人男子の乗客すべてについて昨日のうちに調査が終わり、偽名で乗っていたのは出雲発八時五十五分610便の〈野田明〉一人、と判明した。  同時に、610便の二人のスチュワーデスから、〈野田明〉の座席あたりにいた濃いサングラスをかけた男が、高石に似ていたという証言も得た。カツラをかぶっていたのか、髪型は全然違うが、彼女たちの言う背丈、体付き、だいたいの年齢などは、高石のそれらに近かった。  とはいえ、それだけでは、高石が610便で出雲空港から大阪へ来たらしい、という想像しかつかない。もちろん、これだけだって大きな収穫にはちがいないが、次いで会ったJAL110便のスチュワーデスの一人は、若月たちの想像もしていなかった事実を口にしたのだ。  大阪・東京間のJAL110便の乗客については、まだ調査が終わっていない。が、昨夕の段階で、すでに石川利夫、村山功一という二人の連絡不能な男がいる事実が判明していた。  若月たちはその事実を溝口から聞いたうえで、110便のスチュワーデス三人に会った。  すると、その一人が、機内で紅茶を衣服の袖にかけてしまった男の客がいた、と話した。スチュワーデスのミスというよりは、男のミスなのだが、彼女は謝り、すぐにおしぼりを持って行った。男は、「構わない」と短く言っただけで、彼女がそれ以上そばにいるのを嫌がっている素振りを見せた。  そこで、彼女は離れたのだが、やはり気になり、羽田へ着く直前に行って、もう一度謝った。  その男が、JAS610便のスチュワーデスの話した濃いサングラスの男と、体付き髪型等がそっくりだったのだ。  それだけではない。  110便のスチュワーデスは、男の名前を知らなかったが、若月が「石川利夫」と「村山功一」の座席ナンバーを告げると、男のいた席は「村山功一」の席に間違いない、と答えたのである。  ——紅茶のかかった袖は左です。スーツはよほど注意深く見ないと分からないと思いますが、薄いブルーのワイシャツの袖口が少し茶色く染みになってしまいました。  若月たちが、「お早ようございます」と言いながら高石食品東京出張所のドアを開けると、昨日会った女子事務員の他に、四十歳前後の男が一人すでに出社していた。  女子事務員は机を拭いていた動作を止め、ふっと表情を強張らせた。  一方、机に座って煙草を吸いながら新聞を読んでいた男は、新聞から目を上げ、怪しむような咎《とが》めるような視線を向けた。  若月は男に身分と名を告げた。  男が緊張した顔になり、煙草の火を消して立ってきた。 「昨日も見えたそうですが、社長に何か疑いでもかかっているんですか?」 「いえ、ちょっと参考までにお聞きしているだけです」 「今月十日に社長がこちらへ来たときの時間を問題にされているようですね」 「ええ」 「どんな事件なんですか?」 「たいした事件じゃありません」 「そうですか。で、今朝はどういうご用件で?」 「やはり十日の件なんですが、高石社長がここへ見えたとき、社長のワイシャツの左袖に薄い茶色の染みがなかったかどうか、伺いたいんです」  若月は途中から、雑巾を握ったまま立っている女子事務員に顔を向けた。  高石は飛行機を降りてから、羽田でワイシャツを買い、着替えた、という可能性もないではない。が、ここに現われた十二時十五分頃という時刻からみて、その余裕はなかったのではないか、と若月たちは見ていた。それに、高石は、紅茶の染みから自分がJAL110便に乗っていた事実を突き止められようとは予想しなかったにちがいない。としたら、そこまで用心しなかったであろう。 「茶色というと、血ですか?」  男が訊いた。 「そうじゃありません。紅茶をこぼされたようなんですが、いかがでしょう?」 「私は気がつきませんでしたが」  男が答え、事務員のほうを振り返った。 「私も、覚えていません」  女子事務員が答えた。  では、高石が着ていたワイシャツの色についてはどうか、と若月は訊いた。  女子事務員が首をかしげた。  知っていて隠しているわけではなさそうだった。  どうやら無理な質問だったらしい。 「ここの出張所には、もう一人、おられるそうですが?」  若月は言った。  女子事務員が気づかなかったのに、他人のワイシャツの袖の染みなど、男の営業マンが気づいているわけがない。  そうは思ったものの、その社員が出てくる予定になっているなら念のために待ってみよう、と考えたのだ。 「ええ」  と、男が答えた。 「その方は、今日は来られますか?」 「来ますよ。若い独身者なので、よく寝坊して遅刻するんです」  男が言って、苦笑いとも小馬鹿にしたような笑いともつかない表情を浮かべたとき、階段を駈け上ってくる足音がした。 「来たようです」  言われ、若月たちが体を回すか回さないかのうちに、ドアが勢いよく開き、 「お早よう……あ、失礼」  背のすらりとした男が姿を見せ、驚いたように足を止めた。  まだ二十四、五歳の、三つ揃いをすっきりと着た男だった。 「島根県警の刑事さんだ」  年上の男が言った。  若月は名を言い、簡単に事情を説明して、同じことを質した。 「ああ、ワイシャツの染みね」  若い男が言った。  それは、訊いた若月が戸惑ったぐらい軽い調子だった。 「覚えていますか?」  若月は男を凝視した。 「覚えていますよ。夕方、僕らが外から帰って、一緒に食事に行ったときです。僕は社長の左側に座りましたから、ビールを注いでやろうとしたとき、一度左手でコップを出されたんです。そのとき、袖に茶色い染みの広がっているのが見えたんです」 「ワイシャツの色は?」 「たしか、薄いブルーでした」 「どうしてそんなところに染みを作ったのか、尋ねなかったんですか?」 「そんなこと、訊けませんよ。スーツの袖で隠すようにしていましたからね。でも、いくら夜行列車で来たからって、社長ともあろう者がみっともないな、と思ったので、覚えていたんです」  若月たちは、身なりに気をつかう若い営業マンがいた幸運に感謝し、出張所を出た。  これで、十日の朝、高石が出雲発八時五十五分のJAS610便で大阪へ飛び、大阪でJAL110便に乗り継いで東京へ来たのは、ほぼ確実になったのだった。 「ですが、出雲空港八時五十五分の610便に乗ったとなると、逆算して、米子に五時半から六時ぐらいまでの間に着いていたことになりますよ。これじゃ、ヘリでもチャーターしなければ、どうにもならないんじゃないでしょうか」  駅へ向かう途中で、小笠原が言った。  確かにその通りだった。 「いえ、だいたい、京都まで『出雲4号』に乗っていた高石に、いったいどうやったら佐江田緑を殺せたんでしょう?」  若月にも答えようがなかった。     4  若月たちは溝口に報告を入れ、それから警視庁に電話して岩崎を訪ねた。  桜田門にそびえる警視庁の庁舎に着いたのは十時半。  一階の応接室で四、五分待っていると、岩崎が勝と一緒に降りてきた。  若月たちは立ち上がり、協力の礼を述べた。 「いま、黒江さんたちも見えますから」  岩崎が言った。 「あ、そうですか」  若月は驚いたが、朗報だった。 「勝部長が連絡を取ってくれたんです」 「黒江さんは研究室にも自宅にもいなかったんですが、清新社の笹谷さんに電話したところ、五分ほどして、居場所が分かったので一緒に伺うからと連絡があったんです。  笹谷さんのお話では、黒江さんは、若月さんから詳しい事情を聞かれたんだそうですね。それで、だいぶ頭をひねっているようですよ」  勝が笑いながら言った。 「先日のお礼の電話をしたとき、ついでにお話ししたんです」  勝には自分の心の内を見すかされている気がしたが、小笠原の手前、若月はそう言った。 「そうだそうですね」  勝が話を合わせてくれた。  十分ほど、壮と美緒の関係などを聞いていると、話題の主たちが現われた。  挨拶を交わし、若月は早速、今日つかんだ事実を含めてその後の事情を説明した。  彼の話が終わると、 「乗った飛行機を突き止められたのは、見事でしたな」  と、勝が彼らの着眼と調査を認めてくれた。 「紅茶でワイシャツに染みをつくる、という偶然があったおかげです」  若月は謙遜し、「ただ、山陰から東京へ来たルートは分かっても、お話ししたように、最も肝腎の部分の謎が解けないんです。佐江田緑をどうやったら殺せたのか、死体をどうやったら日御碕まで運べたのか……」 「そうですな」 「佐江田さんの殺された時刻が夕方六時から八時までの間、というのは確実なんでしょうか?」  美緒が訊いた。 「確実とみていいと思います」  若月は答えた。 「でしたら、その時刻に犯人が『出雲4号』から降りていたか、逆に、佐江田さんがそこに乗っていたか、しか考えられないと思いますけど」 「佐江田緑が出雲4号に乗っていたかもしれない、ですか!」  若月は驚いて繰り返した。  これまで考えてもみなかった発想だったからだ。 「なるほど」  勝がうなずき、「佐江田緑は、夕方六時半頃、皆生温泉のホテルを日下峰子と一緒に出たんでしたな?」 「そうです」 「で、出雲4号が米子を通るのは何時ですか?」 「六時三十二分に着いて、発車するのは三十七分です」  小笠原が手帳を見て答えた。 「すると、六時半頃という外出時刻が六時二十分だったとすれば、米子駅まで車かタクシーを飛ばせば、乗れますか?」 「何とか……」 「では、日下峰子が適当な口実を設けて誘導し、乗せた可能性はありますな。そして、その後、犯人が自分の個室へ導き、絞殺したと考えると、少なくとも死亡時刻は合っている……」 「ですが、その死体を、いつ、どうやって、誰にも気づかれずに列車から降ろしたんでしょう?」  若月は言った。 「バラバラ死体じゃないし、無理ですか」 「無理だと思いますが」 「そうですね。列車から降ろしただけじゃなく、駅の外まで運び出さなければならなかったわけですからな」 「ええ。それに、降ろしたとすれば、犯人の下車した京都しか考えられませんが、京都で降ろし、日御碕まで車で運んだのでは、絶対に八時五十五分のJAS610便には乗れなかったんです。いえ、一時間遅れのJAS272便にさえ、乗るのが無理だったんです」 「とすると、犯人は、京都以前……というより、松江か米子あたりで列車を降りていた、という可能性しか残らなくなりますな」 「しかし、これも、列車が京都へ着く前の深夜零時頃まで、犯人は車内にいたんです。車掌と話しているんです」 「でも、そんなの、ありえないんじゃないでしょうか」  美緒が言った。「佐江田さんが列車に乗らなかったのに、彼女の死亡時刻に、犯人が列車に乗っていたなんて」  若月はハッとした。  そうなのだ。確かに考えられない。  彼は美緒の言葉から、 〈高石は出雲4号にいなかったのだ!〉  突然そう思った。  高石らしい男は京都の直前で車掌に話しかけ、消えた。列車が東京駅に着いたとき、五号個室には誰もいなかった可能性が濃い。  それはその通りだったのだろう。男は京都でひそかに降りたのだ。  しかし、それは高石ではなく、高石に見せかけた別人だったのではないか。  この場合、もちろん、男は京都で下車してから、山陰へなど引き返していない。だから、京都で下車したのには、別の理由があった。高石に警察の疑いの目が向いたとき、高石が京都で出雲4号から降り、米子へ引き返したように見せるため、その男は京都で出雲4号から降り、消えたのである。  泉と本多、両車掌に高石の写真を見せ、高石の容姿の特徴を話したとき、彼らは揃って、自分と話した五号個室の客に間違いない、と断言した。さらに、本多は、高石が若月たちに言った通りの内容の会話を交わした事実も認めた。それに加え、もし男が高石の偽者なら京都で途中下車する必要などない——そう考えたために、若月たちは、本多と話した男は高石に間違いない、と信じ込んでしまったのだ。  しかし、いま、美緒の言葉により、本多と話した男は高石の偽者だったとしか考えられない、と分かった。そうでなければ、高石は犯人ではないと結論せざるをえないからだ。  若月は美緒に礼を述べ、自分の考えを話した。  米子で車掌が交替するとき、高石と高石の偽者も入れ替わったのではないか、という想像である。 「なるほど。そう考えると、すべての謎は解けますね」  岩崎が言った。「出雲市駅で社の運転手に見送られて出雲4号に乗り込んだのは高石本人でも、米子で列車から降りていれば、死亡推定時間内に佐江田緑を殺し、悠々、死体を日御碕まで運べたわけですから」 「ええ。そして、その晩はどこか……車の中ででも明かし、翌朝、わざと大阪経由で東京へ向かったというわけです。もちろん、出雲4号の車内であった出来事、身代わりの男が本多車掌と話した内容などは、後でその男から聞いたんでしょう」 「ただ、その場合、高石によく似た共犯者あるいは協力者がいたということになりますが、その点、どうなんでしょう?」  勝が、多少疑問の口振りで言った。 「共犯者がいたとは私も考えたくないのですが、他に可能性がないわけですから。それに、これもいま気付いたんですが、高石に男の共犯者あるいは協力者がいないと、その晩六時に皆生ビーチホテルへ電話することもできなかったはずなんです。その時刻、彼は出雲4号の車中にいたんですから」 「なるほど。しかし、犯人に似たそうした都合のいい共犯者というのは、やはり引っかかりますね」  勝はまだ承服できない様子だった。  若月は壮の顔を窺《うかが》った。  彼は、初めに挨拶してから、一度も口をきいていない。どう考えているのか、彼の意見を聞いてみたかった。  若月の意が美緒には分かったらしく、 「あなたはどう思うの?」  と、訊いてくれた。  しかし、壮は黙って首をかしげただけだった。 「たしかに都合のいい共犯者かもしれませんけど、私は、若月さんの考えられた通りではないかという気がしますわ」  代わりに、美緒が感想を述べた。「いま言われた皆生ビーチホテルへの電話の件も含め、他に考えようがないんですもの」 「本当にないでしょうか?」  不意に無口な男が口を開いた。 「えっ、じゃ、あるの?」 「分かりません。でも、そう結論してしまっていいのか、と思いまして」 「私もそう思いますな」  勝が言った。「若月さんの言われた共犯者あるいは協力者のセンは、一応調べてみる必要はあるでしょう。もし、そうした男が見つかれば、事件は一挙に解決するわけですから。ですが、そこにだけとらわれていると、エネルギーの浪費になる可能性があります」  可能性のないことをいつまでも追いかけているほうが、はるかにエネルギーの浪費ではないか、若月はそう思ったが、口には出さなかった。  壮と勝に対する対抗心が湧いた。こうなったら、意地でも、高石の共犯者を捜し出してやる、と思った。  その前に、出雲へ帰ったら、まずやることがあった。出雲4号の泉、本多両車掌を高石と対面させることである。面と向かって話をすれば、本多も、高石が列車の中で言葉を交わした相手かどうか、はっきり判断がつくだろう。  若月は、取りあえずこの面通しの結果が出たら知らせるからと言い、四人に礼を述べた。  若月たちはその日の夕方、出雲へ帰った。  そして、翌朝、米子まで行き、出社してきた本多を駅に待ち受け(泉は特急「やくも」に乗車勤務中のためつかまらなかった)、米子警察署の応接室を借りて、高石と対面させた。  意気込みと期待に、胸が締めつけられるような緊張感を覚えながら。  だが、若月が〈もうこれしかない〉と考えていた可能性は、そこで脆《もろ》くも崩れさった。     5  美緒が壮とともに寝台特急「出雲1号」で山陰へ向かったのは、その二日後、月が師走に変わった十二月二日(金曜日)の夜だった。  席は残念ながら個室ではなく、二号車のB寝台、下段向かい合わせのベッドである。  上段の客は、途中で乗って来るのか、ボックスは二人だけだった。  一ヵ月近く前、美緒が富山《とみやま》と取材に行ったときは「出雲3号」だったので、発車が九時二十分と遅かったが、1号が東京駅を出たのは六時五十分。  早々とベッドへ入ってカーテンを引いてしまった者もいるが、たいがいの人は、座ってお喋りをしたり、ビールを飲んだり、食事をしたりしていた。  美緒たちも勤めの帰りに待ち合わせて来たので、まず、売店で買った弁当と茶で夕食をとった。  美緒たちのこの山陰行きは、目的だけははっきりしている。高石のアリバイを破るための旅である。が、具体的にどこで降り、どこへ行くかは未定だった。  美緒たち……というよりは壮が山陰行きを決めたのは、一昨日の夜である。  警視庁の応接室で若月や勝たちと話し合った翌日だ。  その晩、美緒は、壮と神保町で待ち合わせ、食事をしながら、若月から昼、壮にかかってきた電話の内容を聞いた。  若月は、「出雲4号」の本多車掌と高石の面通しの結果を知らせてきたのだった。  報告によると、若月たちは本多車掌を高石に直接会わせ、十分ほど話をさせたらしい。  その結果、本多車掌は、 〈自分が九日から十日にかけて乗車勤務した「出雲4号」の車内で会った本人に間違いない〉  と、明言した。  この証言により、若月たちは、米子以後も列車に乗っていたのは高石の共犯者ではなく高石本人だった、と結論せざるをえなかったのだという。  ——若月さん、どんな様子だった?  美緒は壮の話を聞いた後で、尋ねた。  ——元気がありませんでした。  壮が答えた。  ——そう。私も若月さんと同じように考えていたんだけどな。あなたは別の方法があるかもしれないって言うけど、ほんとに他にあるかしら?  ——高石という人間が犯人であるかぎり、あったはずです。  ——分かりそう?  ——皆生ビーチホテルへかけた電話だけは、何とか説明できます。  ——でも、そのとき、犯人は列車に乗っていたのよ。「出雲」には車内電話なんかないわ。  ——あれは犯人がかけたんじゃないんです。日下さんがホテル内の公衆電話からかけ、交換係が出たとき、テープに録音しておいた「佐江田緑さん、お願いします」という男の声を流したんだと思います。あとは、佐江田さんと適当に二、三分話して切ればよかったんです。これで、〈男の声で六時頃、佐江田さんに電話があった〉という証拠が残ります。  ——そうか……!  美緒は感心し、  ——じゃ、肝腎のアリバイは?  ——昨日《きのう》からずっと考えているんですが、そちらはまるで見当がつきません。  ——あなたでもね……。  ——で、このまま東京で考えているよりは、あしたの夜、「出雲」に乗って山陰へ行ってみようかと思っています。  ——えっ、山陰へ行くの!  ——実際に寝台車に乗ったり、米子や日御碕に立ってみたら、見逃している盲点に気づくかもしれませんから。  ——狡《ずる》い! 狡いわよ、一人で。  ——でも、美緒さんはこの前、行ってきたばかりでしょう?  ——あれはお仕事。全然別よ。私だって断然一緒に行くわ。いいでしょう?  ——ええ、まあ……。  というわけで、今夜の山陰行きが決まったという次第であった。  九時十分、列車は静岡駅を出た。  美緒たちの上段の客は、まだ乗ってこなかった。  列車はあと浜松、名古屋に停まり、十一時二十四分に名古屋を出てからは、翌朝二時五十九分、福知山に着くまで、どこにも停車しない。 〈このまま、ずっと誰も乗ってこなければいいんだけどな……〉  美緒は、そう思った。  片側の席に壮と並んで座り、本を読んでいた。  九時近くまで壮と話していたのだが、寝《やす》む人が多くなったし、相棒も一人で考えたそうに見えた。そこで、バッグから本を出し、読み始めたところだった。  この前、富山と取材に行ったとき読み残していたので、また松江へ行くからと持って来たハーンの選集だった。  相棒は、何かを見ているのか何も見ていないのか分からない目を、暗い窓外へじっと向けていた。  ほとんど身動きしない。  といって、まだ「考える人」にはなっていなかった。  美緒も、『知られざる日本の面影』のなかに出てくる「心中」という一文を途中でやめ、謎に戻った。  もう何度も考えているが、高石のアリバイの壁は二つあった。それらは、  (1) 佐江田緑の死亡時刻に「出雲4号」に乗っていた高石が、彼女をどうやって殺したのか?  (2) 少なくとも午前零時二十五分に京都に到着するまで「出雲4号」に乗っていながら、どうやったら緑の死体を日御碕まで運んで捨て、朝八時五十五分に出雲空港を飛び立つJAS610便大阪行きに乗れたのか?  の二点である。  この二点を同時に解決するには、「出雲4号」に乗っていたのは高石の偽者である、と結論せざるをえない。  若月と同様、美緒もそう考えたのだが、しかし、その可能性はない、と否定されたのだった。  十時七分に浜松に着く少し前、車内の照明がおとされた。車内放送も、緊急の場合を除き、明朝の六時までないという。  間もなく浜松に停まった。  上段の客は乗ってこなかったが、いつまでも起きていては周りの人に迷惑をかけるので、美緒たちもそれぞれのベッドに入ることにし、交替で洗面所へ行ってきた。  明日は、米子で降りるか、松江か出雲市まで行くか、まだ決まっていない。  朝、起きてから決めよう、と壮が言う。 「じゃ、おやすみなさい」  美緒は言い、先にベッドへ入ってカーテンを引いた。  まだ眠れそうにないので、横になって本を読むつもりだった。  彼女が着替えていると、 「ハーン、読みますか?」  と、壮が外から訊いた。 「そのつもりだったけど、あなたが読むなら、いいわよ、私は別の本があるから」 「じゃ、貸してくれますか」 「はい」  と、美緒はカーテンの隙間から本を差し出した。 「すみません」 「怪談でも読むの?」 「ええ。�下手な考え休むに似たり�ですから、少し気分転換します」  壮にしては、珍しいこともあるものだと思いながら、美緒はバッグから別の文庫本を取り出し、横になった。  しかし、美緒の好きなOという女流作家の辛口エッセーだったが、なかなか集中できなかった。  壮が「気分転換……」などと言い出すからには、彼にも今度の謎ばかりはどうにもならないらしい、と思ったからだ。     6  美緒が時計を見て、名古屋まであと二十分か……と思ったとき、二ボックスほど奥のベッドで赤ん坊が泣きだした。  体の具合でも悪いのか、なんとなく苦し気な泣き方だ。  母親らしい女性が小声でしきりにあやし始める。  美緒にはもちろん見えないが、見えなくても、母親の困惑している様子は手に取るように分かった。 「うるせえな、外で泣かせてよ」  隣りのボックスで男の声が怒鳴った。 「すみません」  母親が謝った。  ベッドから降り、赤ん坊を抱き上げたようだ。 「すみません、どうもすみません」  謝りながら通路を歩いて来る。  美緒は、気の毒になり、カーテンを細く開け、 「大丈夫ですか?」  と、声をかけた。 「はい」  美緒とあまり歳の違わない若い母親が足を止め、うなずいた。 「もしお医者さんにみせたほうがいいんでしたら、車掌さんに連絡してきますけど」 「いえ、少し風邪ぎみなだけですから……」  母親が、かすかに笑みを浮かべて「ありがとうございます」と礼を言い、車両の外へ出て行った。  赤ん坊の泣き声が消えると、壮がカーテンを開け、美緒を見た。  このままでいいか、と問うような目だ。 「大丈夫みたいだから……」  美緒はその目に小声で答えた。 「そうですか」 「もし、なかなか戻ってこないようだったら、様子を見てくるけど」 「そうですね、あまり大袈裟にしたら、かえって悪いですし」 「どちらにしても、お手伝いが必要だったら私がするわ。あなたは寝んでいて」  美緒が言ったときである。  壮の目が不意に強い光を帯びだした。  美緒の顔から逸らされ、どこか宙の一点を見つめ始める。  何かに気づいた兆候だった。  美緒は、黙って待った。  このまま「考える人」になってしまうかもしれなかったし、その一歩手前で引き返してくるかもしれなかった。  いつもは「考える人」になられたら困ると思うときが多いが、今夜は違う。ぜひ、なって欲しかった。「考える人」になって、謎を解いて欲しい。そのためなら、明朝までだって、眠らないで待つ用意があった。  美緒がそんなふうに考えていると、 「美緒さん」  また不意に壮が言い、美緒の顔に目を戻した。  どうやら引き返してきたらしい。  その表情から判断し、何かに気づいたのは確実だった。 「なーに?」 「実は、いま、僕は『ロクロ首』を読んでいたところだったんです」  壮が、まるで関係のないようなことを、言い出した。 「ロクロ首」というのは、もちろん、ハーンの『怪談』のなかに入っている物語の一つである。  おそらく、美緒以外の人間だったら、ズッコケただろう。  だが、美緒にだけは、それが肝腎の話と無関係でないのが分かっている。だから、 「で、どうしたの?」  とだけ、訊いた。 「これまで、僕は、ロクロ首というのは、首がひゅるひゅる蛇のように長く伸びる化け物だとばかり思っていました。もちろん、それも、ロクロ首と言うんでしょうけど、ハーンの書いているロクロ首は違うんですね」 「そうよ。ハーンのロクロ首は、首が体から離れて勝手に飛び回り、遊び回り、また胴体に戻るお化けのお話。でも、首が離れている間に、胴体を誰かに動かされると、その首は二度と自分の胴体に戻れなくなってしまう……」 「そして、この怪談のなかでは、主人公の僧が、その性質を利用してこの化け物を退治してしまうわけですが……実は、それから、僕はあることを思い付いたんです。いや、正確にいうと、このロクロ首と、いま、赤ちゃんが泣きだした出来事からです」 「……?」 「赤ちゃんの件は後にして、まずロクロ首の話をしますと……」 「待って。もうすぐ名古屋だから、名古屋を過ぎたら、デッキへ行きましょう」  美緒は壮の言葉を遮って言った。  一刻も早く彼の話を聞きたかったが、いくら二人が声をひそめて話していても、迷惑に感じている人がいるかもしれなかったからだ。  壮が了解して、黙った。  六、七分して列車が名古屋に着き、二号車に三人乗って来たが、美緒たちの上段のベッドには来なかった。  赤ちゃんが眠ったらしく、さっきの母親も外から戻ってきた。  美緒たちは彼女と入れ代わるようにしてベッドを降り、デッキへ出た。  壮は浴衣姿だが、美緒は家から持ってきたトレーナーを着ていた。 〈ロビーカーが付いていれば、こんなときいいのにな〉  そう思いながら、美緒は壮の腕につかまって前に立ち、 「さっきのつづき、話して」  と、彼の顔を見上げた。「まず、ロクロ首のお話から……」 「先月九日の夜、高石は、たぶんロクロ首だったんです」  壮が話し出した。「彼はロクロ首の首のように、米子で『出雲4号』から一度降り、京都の手前でまた戻ったんです。佐江田さんが列車に乗ったのでもなく、京都の手前で車掌さんに話しかけたのが高石の偽者でもないとしたら、もうそうとしか考えられません。  こんなことは、論理の当然の帰結だったんですが、米子を過ぎてから車内で起きた盗難騒ぎについて高石が話している事実、たとえ一度下車して佐江田さんを殺しても、京都の手前まで高石が列車に乗っていたのでは死体を日御碕まで運べない点……などから、殺人と死体運搬の問題をひとまとめにして考えていたんです。そして、それらを一緒に解決しようとしていたため、何がなんだか分からなくなっていたんです」 「じゃ、二つを別々に考えるの?」 「ええ」 「ということは、犯人は一度米子で『出雲4号』から降りて、京都の手前で列車へ戻り、また京都で降りた——?」 「そうです」 「でも、それじゃ、たとえ佐江田さんを殺害してうまく『出雲4号』へ戻れたとしても、死体を日御碕まで運べないんだから、同じじゃない」 「同じじゃありません。確かに、死体運搬の問題は未解決のまま残りますが、それはひとまず切り離して後で考えよう、というわけです」 「後で考えるといっても、どうにも……ううん、いいわ、それなら」  美緒は途中で壮の考えを了承し、「で、犯人は米子で降りて、京都の手前までに『出雲4号』へ戻れるの? いえ、その前に、米子で降りてしまっているのに、二号車で起きた盗難騒ぎをどうして知ったの? 結局、犯人に騒ぎについて教えた協力者が乗っていたというわけ?」 「協力者など乗っていません」 「じゃ……?」 「美緒さんは、さっき赤ちゃんが泣き出したとき、初めカーテンを開けないでいたんでしょう?」 「ええ」 「そのとき、赤ちゃんの泣いている様子、お母さんのあやしている様子、困った様子……そうしたことが分かりませんでしたか?」 「手に取るように分かったわ」 「でしたら、犯人も、米子で降りる前、二号車のどこかのベッドにテープレコーダーを隠しておいたら、どうでしょう?」 「そうか、それを後で聞いて……」 「そうです。まさかビデオカメラを設置するわけにはゆきませんが、テープレコーダーでしたら、名刺ぐらいの大きさで録音性能の良いものが売り出されています。それを、一号車の個室とは別に予約した二号車のベッドに潜めておき、ふたたび乗ってきたとき、通路を通りながら、素早く取り外せばいいんです」 「でも、二号車内で盗難騒ぎという目立った出来事があったからよかったけど、何もなかったら、どうするの?」 「騒ぎは犯人が作ったものにちがいありません。犯人は、自分が米子で降りた後、何らかの騒動が起きるタネをいくつか考えていたんでしょう。バッグの抜き取りは、たぶんその一つです。たまたま、あまり注意深くなさそうな太った女性を見つけたため、ハンドバッグを掠め、現金だけ抜き取るという行動に出たんだと思います」 「ふーん」 「もちろん、これは僕の想像ですが、調べれば、正しいかどうか、おおよその判断はつきます」 「あの晩、寝台券が購入されていながら誰も乗ってこなかったベッドが二号車にあったかどうか、という点ね?」 「そうです。もしそうした席があるとすれば、テープレコーダーを置いたり取ったりするのを見咎められないよう、たぶん、ワンボックス——四つのベッド——全部が買い占められていたと思うんです」  壮は、この点、明日若月に連絡して調べてもらうつもりだ、と言った。 「じゃ、あとは、米子で『出雲4号』を降りて佐江田さんを殺害し、列車が京都へ着く前に戻れるか、という問題ね。  時刻表とメモ用紙を取ってくるわ」  美緒は言うより早く、壮の腕を放し、体をめぐらした。     7  出雲4号が米子に着くのは、午後六時三十二分である。  高石がそこで降り、峰子が近くへ誘い出しておいた緑を殺害し、すぐ車で追いかけたとしても、倉吉に七時三十一分に停車するまでノンストップで走る特急列車に追いつくことはできない。  新幹線が並行して走っているわけでなく、もちろん後続の列車に乗っても、追いつくのは不可能である。  とすれば、飛行機しかない。  美緒たちが航空ダイヤの色ページを開くと、恰好の便があった。  米子発午後七時三十五分のJAS680便、大阪行きである。  出雲4号を米子で降りてから、飛行機の飛び立つまで、一時間三分。  米子駅から皆生温泉まで十分、皆生温泉から空港まで十五分、緑の殺害に要した時間を五分とみて、合計三十分。緑の殺害後、死体を積んだ車を翌朝の犯人の行動に好都合な場所まで運んでおく仕事を峰子に分担させれば(峰子がビーチホテルへ戻ったのは七時半頃なので、三十分ほどの余裕があったはず)、高石は皆生温泉から空港へタクシーで直行し、悠々その飛行機に乗れただろう。  JAS680便の大阪着は、夜八時三十分。  美緒たちは、また、「出雲4号」のページに戻った。(時刻表参照)  出雲4号は、日本海を離れて城崎を出ると、豊岡、福知山、綾部、京都の順に停まって行く。  これらのうち、京都より前で大阪空港にできるだけ近い駅は、福知山と綾部である。  出雲4号の福知山発が午後十時四十七分。綾部発が十一時一分。  両駅とも大阪空港からだいたい同じ距離の感じなので、後の綾部のほうがよい。  となると、大阪空港に八時半に降りた人間が、車を飛ばし、綾部まで二時間半で行けるか、という問題であった。  大阪・綾部間は、京都・福知山間とさして変わらない感じだ。若月によると、京都・福知山間は約二時間みれば十分だという。  それなら、飛行機が多少延着しても、高石は綾部で「出雲4号」に追いつくことができたのではないか——。  美緒たちはそう結論した。 「ロクロ首は、首が離れている間に胴体を動かされたら戻れないけど、こちらは、列車が動いていても戻れたのね」  美緒は恋人の顔を見上げて、言った。 「そう考えてよさそうです」 「十一時に出雲4号へ戻れれば、京都へ零時二十五分に着くまで、一時間半近くあるわ。この間に二号車へ行ってテープレコーダーを取り、浴衣に着替え、ずっと列車に乗っていたようなふりをして車掌さんに話しかけるのは簡単だわ。  やっぱり、殺害の問題と死体運搬の問題を切り離したあなたの考えは、正解だったのね」  美緒が言ったとき、さっきから二度通っている車掌が、また通りかかった。  初めのときは、「どうしたんですか?」と訊いたが、「ちょっと眠れないものですから」と美緒が答えると、二度目のときは何も言わなかった。  まさか殺人事件の話をしているとは想像しないから、恋人同士が愛をささやき合っているとでも思ったのかもしれない。  しかし、やはり気になるのだろう、それとなく様子を見にきた感じだった。  そこで、美緒は、 「すみません、もう寝みますから」  と言い、安心させてやった。  それからメモ用紙を開き、これまでに判明していた高石の経路にいま判明した経路を加えて、それらを実線(——)で、まだはっきりしない部分を点線(……)で、図示してみた。  壮の推理により、これで、高石には緑の殺害が可能だ、と分かった。  しかし、さっき切り離した問題は依然として残っていた。図の点線部分の解明である。  美緒は図を見ながらそれを言い、どうしたらいいのか、壮に訊いた。 「今は分かりませんが、いずれきっと解けますよ」  壮が事もなげに答えた。 「でも……」 「それより、本当にもう寝みましょう。いつまでもこんなところにいたら、怪しまれますから。あ、それから、明日は、米子で降りることにします」     8  出雲1号は、定刻通りに午前七時七分に米子に着き、美緒たちは降りた。  駅舎を出て、広場の前に立つと、四車線の通りが真っ直ぐ延びていた。  まだ時刻が早いからか、ガランとしている。  駅舎は北西に向いているらしく、通りの左側だけが朝日を浴びていた。 「東京より寒いかと思ったけど、あまり違わないわね」  美緒が言うと、 「そうですね」  相棒が気のない返事をした。  どうやら、彼の頭は、高石の行動に向いているらしかった。  先月十日、高石が京都で出雲4号から降り、福知山で出雲1号に乗ったとすれば、今と同じ時刻、ここに立ったはずだからであろう。 「七時九分です」  壮が時計を見て、言った。 「ええ」 「この近くに、佐江田さんの死体をトランクに乗せた車が置いてあったと仮定して、これから僕たちも日御碕まで行ってみましょう」 「タクシーで?」 「そうです。一番早い道を通って、何時に着けるか、実験してみたいんです」 「いいわ」  美緒は答えた。  そんな実験をするつもりなら、若月に連絡して覆面パトカーを用意しておいてもらえばよかったのに、と思うが、仕方がない。 〈でも、結婚したら、駄目よ〉  美緒は胸の内でつぶやきながら、彼につづいて左手のタクシー乗り場へ急いだ。 〈結婚したら、そうした費用は、交通費や宿泊費と合わせ、あなたに「探偵」を頼んできた人に請求してやりますからね〉  美緒が乗り込み、つづいて壮が乗った。  ムスッとしていた運転手は、壮が「日御碕まで」と行き先を告げるや、急に愛想よくなり、饒舌になった。  それはそうだろう、朝、米子から日御碕まで行く上客はそういないにちがいない。  走り出すと、壮が〈一番の近道はどこか〉と訊いた。 「やはり、国道9号線を出雲市まで行き、北へ入るのが一番ですね」  それは、美緒も知っている。山陰本線と並行した、中海、宍道湖の南側ルートだった。(地図参照) 「ですが、国道431号線一本で、境港を通って大社まで行っても、十分か十五分しか違わないと思いますがね」  運転手がつづけた。「どちらにされますか? そこの十字路で交差しているのが9号線です。ずっと9号線を行くんでしたら左、431号線を行くんでしたら、右へ曲がりますので」 「一分でも早いほうを行ってください」  壮が言った。 「分かりました。じゃ、9号線を行きます」  運転手が答え、車を左車線に寄せた。 「それから、スピード違反に問われない範囲で、できるかぎり早くお願いします」 「何か日御碕にお急ぎの用事でも?」 「ええ、まあ……」 「でしたら、列車で出雲市まで行かれたほうが早かったかもしれないのですが。これから行くと、松江の手前で渋滞にぶつかりますから」  良心的なのか、運転手が言った。  ただし、国道9号線をかなりスピードを上げて走り出してからである。 「渋滞するんですか!」  壮が少し声を高めた。  彼もそこまで調べていなかったらしい。 「ええ。昼の時間帯より三十分はかかる、とみていただいたほうがいいですね」 「何とかもっと早く行く道はありませんか? 地図で見ると、松江の南にバイパスが通っているようですが」 「バイパスはまだ途中までしか通じていないんですよ。……あ、それでもバイパスを行き、あとは適当な道を選んで玉造温泉の辺りで9号線へ戻ったほうが早いかもしれませんね。ただ、距離が多少長くなりますが」 「結構です。その道を行ってください」 「分かりました」  その後、運転手が近くにある月山城跡や足立美術館の説明をしたが、壮は小さくうなずくだけだった。    時々腕時計に目をやりながら、緊張した顔で前方を見ていた。  間もなくタクシーは安来《やすぎ》の市街を抜けた。振り向くと、かなたに大山の雄大な姿がそびえていた。  タクシーは、中海の岸を山陰本線の鉄路と並んでひた走った。そして、揖屋《いや》というところで鉄道を跨ぎ、左のバイパスへ入った。  低い丘と水田の中の道である。  走りは快調だった。  が、バイパスの終わりが近づくと、段々前に車が詰まり始め、タクシーは左の狭い道へ折れた。  あとは、巧みに道を選び、山の中を抜けて宍道湖畔の9号線へ出た。  市街を通らずに松江を越したのである。 「まあ、これが一番早い道といったところでしょうかね」  運転手がちらっと振り向いて言った。 「ありがとう」  壮が礼を言った。 「ここまで来れば、もう空いていますから」  しばらくシジミ獲りの小舟を見ながら走り、右に出雲空港、平田市を通って大社へ行く道を岐《わ》けた。  時刻は八時二十四分。 「平田市を通って日御碕まで行っても、たいして違いませんがね」  二十分近く快適に走り、出雲市へ入ると、多少スピードが緩んだ。  市役所を過ぎた次の十字路で右へ折れた。  そこから出雲大社前まで十四、五分。  さらに十四、五分で日御碕神社前を越し、海にぶつかった。  人の姿がまったくなく、閑散としていた。  緑の死体のあったのは、ここから右へ小道を登った左側だという。  午前九時から午後五時まで車両通行禁止の標識が立っていたが、運転手が、「誰もいないし大丈夫でしょう」と言いながら、タクシーを乗り入れた。  百メートルほど行き、美緒たちは見当をつけてタクシーを降りた。  時刻は、九時二十一分。  高石が十日の朝乗ったはずの八時五十五分発のJAS610便大阪行きは、とっくに出雲空港を飛び立っているはずであった。  タクシーを待たせたまま、小道の端に寄り、死体のあったと思われるあたりの松林の斜面を覗いた。  すぐ前が経島《ふみしま》である。  美緒がこの前来たときと同様に、ウミネコの姿は見えない。が、沖のほうから、ニャーニャーという鳴き声が聞こえた。  美緒たちは、そこに三分間いただけでふたたびタクシーに乗り、出雲空港へ向かった。  運転手が怪訝な顔をして理由を訊きたそうな素振りを見せたが、壮が何も言わないので、尋ねなかった。  出雲空港でタクシーを捨てたのは、十時十五分。  当然ながら、八時五十五分のJAS610便大阪行きはもとより、九時五十分のJAS272便東京行きも出た後であった。  美緒たちはターミナルビルへ入った。ワンフロアしかない平たいビルである。 「これじゃ、どうにもならないわね」  美緒は言った。  壮は小さくうなずいただけだった。  タクシーが日御碕を出てから、彼はまったく口を開かない。  懸命に考えている様子だ。  だから、美緒もそれ以上は話しかけなかった。  ロビーに立ち、傍らの相棒が何か言い出すのを待った。  朝起きてから何も食べたり飲んだりしていなかったが、空腹を覚えなかった。ただ、相棒の頭に閃きが起こるのを祈りつづけた。  しかし、結局、それは起こらず、美緒たちは大社までまた引き返し、出雲ソバを食べてから若月に連絡を取った。     9  若月とは、バスターミナルに近い甘味店の二階で待ち合わせた。  壮が捜査本部に電話し、大社にいると言うと、若月はびっくりしたらしい。すぐに飛んで来た。が、驚きながらも、彼が思わぬ再会を喜んでいるのは、顔を見れば分かった。美緒たちが昼食をとってしまったことを、しきりに残念がった。壮に対する感謝のしるしに、せめて美味しいソバぐらい御馳走したいと思っていたらしい。  若月は、壮が謎の一方を解いた事実を聞き、さらに驚いたようだった。  彼は、大阪空港から綾部まで車で二時間あれば行けることを電話で問い合わせて確認した後、九日夜七時三十五分米子空港発大阪行きのJAS680便の乗客と、出雲4号二号車の座席の状況については早速調べてみる、と約束した。  美緒たちは、彼と一時間ほど話して、別れた。  必要ならパトカーを用意すると言ってくれたが、断わり、大社にお参りしてから日御碕へ行った。  さっきと違い、今度は観光なので、倹約してバスである。  もっとも、観光とはいえ、美緒の相棒は白亜の灯台を見上げていても、海を眺めていても、遊歩道を歩いていても、半分以上は謎解きに注意を奪われているようだった。  自然、美緒も、若月の言った言葉を自分の疑問として考えていた。  ——それにしても、もう一方の死体遺棄の謎が、まるで分かりません。京都で零時二十五分に出雲4号を降り、米子までどういう手段で戻ったんでしょうね? 出雲1号が米子に着く七時七分より早ければ、道路は空いています。ですが、そうした道路事情を考慮しても、遅くとも五時半には米子に着いていないと、死体を日御碕まで運んで捨て、出雲空港を八時五十五分に飛び立つJAS610便には乗れませんからね。  若月はそう言ったのだ。  日下峰子には絶対に運べなかったわけだし、そうなると、午前零時半から五時半までのたった五時間で、高石は京都・米子間三百キロを移動したことになるのである。たとえ中国自動車道が通行止めになっていなかったとしても、五時間半はかかるだろうという距離を。陸路をそんなに早く移動する方法などありうるだろうか。  とはいえ、美緒がヘリコプターか小型飛行機をチャーターした可能性を口にすると、壮は、証拠が残るそんなものは絶対に使っていないと言うし、若月たちが調べたかぎりでもそうした形跡はない、というのだった。  美緒たちは出雲大社前まで戻り、畑の中と宍道湖畔を走る一畑電鉄の小さな電車で松江へ出た。  今晩は、松江温泉に泊まる予定になっていたからだ。  ホテルへ入るには早いので、松江城や塩見縄手を見物してから宍道湖大橋を渡り、夕日の眺めが美しいという白潟公園のほうへ歩いて行った。  ハーンが、〈太陽が没し始めるにつれて、水に空に、色の不思議な変化があらわれる……〉と書いている宍道湖の夕日だが、今日は午後から段々雲が多くなり、見えそうにない。  残念だったが、それでも、白っぽく広がる湖の西の果ては、水も空も山の端も、かすかに赤味を帯び始めているのが認められた。  NHKの前を越したところの芝生で少し休んだ。  松の枝が形よく整えられていた。その間から見る右手対岸のホテルが、水に影を映している。白いビルも違和感がなく、落ちついた景色だった。 「そろそろ、ホテルへ行く?」  美緒が訊くと、 「そうですね」  と、壮が答えた。  別にどうでもいい、という感じである。  相変わらず、相棒の頭は謎が八、九割がた占めているのだ。 「日下さんという人が泊まったTホテルじゃないけど、私たちの泊まるホテルもTホテルも、きっとあの辺りね」  美緒が言い、歩き出すと、「ええ」と言って壮もついてきた。  二人は並んで湖畔を戻り、いま来た宍道湖大橋を渡って行った。  前方のビルとビルの間に、松江城の黒い天守閣が小さく覗いていた。  壮が不意に足を止めたのは、三百十メートルの長さがあるという橋の真ん中あたりまで進んだときである。  美緒も立ち止まり、「どうしたの?」と訊きかけて、言葉を呑み込んだ。  相棒の目が、外界の何ものも見ていないのが分かったからだ。 「考える人」になってしまったのだった。  美緒は、胸が高鳴りだした。  何か気づいたにちがいない。  こうなると、覚めるのは五分後になるか一時間後になるか、予想がつかない。が、美緒はいつまででも待つ覚悟を決めた。  今度の事件に関わってから、初めて「考える人」になったのである。  車の通りは多いが、幸い、歩道を通る者はほとんどいないので、ぶつかる心配はなかった。  水面を渡ってくる風は冷たく、コートの襟を立てていても、段々体が冷えてきた。  せめて、橋を渡りきったところなら良かったのに……と美緒が恨めしく思い始めたとき、 「美緒さん、何をしているんですか? 早く行きましょう」  と、相棒が言った。  もちろん、また不意にである。  体を凍えさせて待っていたのに、〈何をしているんですか?〉には腹が立つが、この宇宙人、自分が「考える人」になっている間のことはまるで記憶にないらしいので、仕方がない。 「そうね、ホテルへ行って温かいコーヒーでも飲みましょう」  美緒は答えた。  まずは体を温めてから彼の話を聞きたい、と思ったのだ。  が、相棒は、 「えっ? ホテルじゃありませんよ」 「ホテルじゃないって……じゃ、どこへ行くの?」 「出雲北署の若月さんのところです」 「謎が解けたのね!」 「解けました」 「犯人はどういうふうに……?」  美緒は寒さを忘れた。 「この謎も、前の殺害の謎と同様、若月さんに与えられていたデータをよく考えれば、一つの答えしか残されていなかったんです。それでいながら、今の今まで気づかなかったんです」 「京都から米子へ戻るのに、出雲1号に乗るより早い方法が見つかったのね?」 「いえ、見つかりません」 「どういう意味? それじゃ、佐江田さんの死体を日御碕まで運べなかったことは、私たちの朝の実験でも明らかじゃない」 「ええ。ですから、高石は日御碕まで死体を運ばなかったんです」 「えっ? だって、日下峰子という共犯者にも運べなかったのよ」 「そうです。彼女も、一人では運べませんでした。ですが、高石と二人で力を合わせれば、運べたんです。つまり、二人で死体を積んだ車をリレーしたんです」 「リレーをした……? じゃ、彼女が九日の夜、途中まで運んでおいて、それを翌朝、犯人が日御碕まで運んだの?」 「僕も初め、そう考えました。ですが、彼女がどこまで運んでおこうと、それでは無理だと分かりました。  十日の朝、犯人が『出雲1号』を米子で降りようと、松江で降りようと、たとえ出雲市まで来て降りようと——だいたい日下峰子には、九日の夜、松江や出雲市まで佐江田さんの死体を運んでおく時間はありませんでしたが——とにかく、犯人が列車をどこで降りようと、そこから車を日御碕まで走らせ、死体を捨てて出雲空港へ行けば、朝の僕たちの実験と三、四十分と変わらない時刻になってしまったはずだからです」 「そうなの?」 「僕たちが米子でタクシーに乗り、出雲市に着いたのは、八時四十五分前後でした。  一方、米子で降りずに出雲1号に乗りつづけて出雲市まで来ても、確か、出雲市着が八時十七分なんです。  つまり、三十分しか違わないんです。  これでは、日御碕を往復して、八時五十五分に飛び立つJAS610便には、絶対に乗れません」 「じゃ……?」 「逆です。十日の朝、高石が米子から出雲空港まで死体を運んでおいたんです。これなら、朝僕たちが国道9号線の出雲空港へ行く道の分岐を過ぎたのが八時二十四分頃でしたから、そこから五分とかからない空港に八時半には着け、五十五分発のJAS610便に乗れます。  一方、日下峰子は十日の朝、十一時に出雲大社で松江から乗ってきたタクシーを捨てています。  それから、午後一時半頃に死体が発見されるまで、約二時間半。  一時間四十分あれば、大社から別のタクシーで出雲空港へ直行し、そこから高石の駐めておいた車を運転して日御碕まで行き、佐江田さんの死体を捨てることができたはずです。要するに、佐江田さんの死体は、十日の朝、日御碕へ遺棄されたのではなく、昼過ぎ——発見されるわずか三十分から一時間前——日下峰子によって捨てられたんです。もし車両通行禁止になっていた小道へ入るとき、誰かがいたら、別の場所へ捨てるつもりだったんだと思います」  壮が言い、メモ用紙を出して、       米子—→出雲空港(高石)   出雲空港—→日御碕(峰子)      と、書いて見せた。 「分かったわ」  美緒はメモから顔を上げ、ようやく納得して言った。「あの、あまり人の通らない、どこからも見られる心配のない場所なら、左肩の脱臼が治りきっていない日下峰子にも、右腕を使って背負うようにすれば、死体を車から下ろして捨てるぐらいできたわね」 「そうです」 「ただ、日御碕のあの場所は、比較的早く死体が見つかるように、と考えて選んだ場所のはずよね。もし、なかなか見つからないと、日下峰子が十一時に大社でタクシーを捨てた後、米子まで戻って死体を運んで来れたことになり、彼女のアリバイがなくなるから」 「比較的簡単に見つかる場所を選んだ、というのは、たぶん美緒さんの言う通りでしょう。ですが、理由は、死体がなかなか見つからないと彼らのアリバイ工作が危うくなったからだ、と思います」 「じゃ、日下峰子は?」 「彼女には、米子まで戻って日御碕まで死体を運んで来る時間的余裕がなかったことを示す、午後のアリバイが用意してあったはずです。そうでないと、片手落ちになりますから。  ところが、午後一時半前後に死体が発見されて自動的にアリバイが成立したため、彼女はそれを言う必要がなくなったんだと思います。  それから、もう一点……昼、車両通行禁止になるような場所をなぜわざわざ選んだのか、という理由ですが、それはたぶん、死体が夜捨てられた——遅くとも午前九時前に捨てられた——と思わせ、真相に気づかれないようにしたんだと思います」 「そうか! でも、少しでも誰かに見られる危険があったら、近くの別の場所に変更するよう、犯人は彼女に指示しておいた?」 「おそらくその通りでしょう」  壮が答え、よくできましたというように、にっこり笑った。  その彼の笑顔を見て、美緒は体から急に力が抜けおちてゆくような感じがした。  すると、忘れていた寒さが意識によみがえり、全身が冷えきっているのに気づいた。 「ね、若月さんのところへ行くの、コーヒーを飲んでからじゃ、いけない?」  彼女は、恋人の腕を取って揺すった。     10  若月たちが高石の逮捕に踏み切ったのは、壮と美緒に会った二日後の月曜日である。  その後、いくつかの状況証拠を手に入れ、それを元に検事が彼を全面的な自供に追い込んだのは、さらに五日経った十日の土曜日になってから。  その供述によると、犯行の動機、方法、トリックの大筋は若月や壮の考えた通りだったが、君島との関係、稲垣との関係などを含めた彼の犯罪の全貌は、次のようなものであった。  ——高石が稲垣と知り合ったのは、二十数年前、大学を出て、東京の証券会社に勤めていたときである。  当時、高石は、いつか郷里の松江へ帰り、自分で事業を始めたいと考えていた。そのため、友人の名を借りて買った株で儲けた五十万円を資金に、闇金融を始めた。  といって、そうしたアルバイトをしている事実を会社の上司や同僚に知られたら、まずい。そこで、四、五ヵ月に一度、新聞に小さな求人広告を出し、自分の代わりに表に立って貸しつけたり取り立てたりする人間を募集した。  この何度目かの広告に応募してきたのが、医学部の学生だった稲垣である。  その頃、稲垣は困窮していた。定時制高校を卒業した後、一年間働いてから大学へ進んだものの、蓄えた金が底を突き、学業をつづけられるかどうかの瀬戸際に立たされていた。だから、破格のアルバイト料に釣られて応募してきた男たちがみな高石の説明を聞いて辞退しても、彼だけは、約束の金をくれるのならぜひ雇って欲しい、と言った。  稲垣の境遇は、高石にとっては願ってもない条件だった。その場で、雇い入れを決め、彼との二人三脚が始まった。  高石は、新しい「手先」を雇うたびにその男のアパートに電話を引かせ、そこを「社」の事務所にした。頻繁に変えたほうが安全だからである。  稲垣の場合も同様である。  アパートの電話番号だけ記して三文週刊誌に広告を載せ、融資を申し込んで来た人間の身元調査、貸し付け、取り立てなど、ほとんど彼にやらせた。  稲垣とのコンビは最も長く、一組の学生夫婦が借金を返せなくなって鳥取砂丘で心中するまで——それで稲垣が辞めたいと言い出すまで——二年近くつづき、その間、アパートを五回変えさせた。  稲垣がアルバイトを辞めてから二十年近くの間、高石は彼との交渉は一度もなかった。ところが、三、四年前、新聞で偶然彼の名を見、慶明大学医学部教授になっているのを知って、びっくりした。ずいぶん偉くなったものだと思った。  そして、選挙資金を得るため、君島を使ってインチキ健康食品「ヘルス・ワン」の製造販売を始めようと考えたとき、稲垣の名を利用することを思い付き、電話をかけた。  稲垣は驚いたようだった。  迷惑に感じているのがよく分かった。  最初は、「先生のお名前を拝見し、懐しくなって……」とだけ言って近況を報告し合い、二度目にかけたとき、用件を切り出した。  知人が健康食品を売り出すので、知人の用意した推薦文に名前だけ貸してやってくれないか、と頼んだのである。  一緒に酒を飲んでいるとき、つい先生と知り合いだと口にし、紹介すると約束してしまった、昔世話になり、恩義を感じている男なので、今更冗談だったとは言えなくなってしまい、困っている、どうか助けて欲しい——。  あくまでも表面は下手に出、それでいて暗に相手の過去の秘密を握っている事実を仄《ほの》めかした。  ——闇金融をしていたなどというのは、市会議員をしている私にとってもキズですから、絶対に口外できません。ですが、有名大学医学部の教授になっている先生に、若い夫婦を心中に追い込んだ過去があるなどと知ったら、世間の人たちはさぞ驚くでしょうな。お互い、共通のキズを持つ者同士、助けていただけませんか。  それでも、稲垣は渋った。  どういう食品か分からないのに、やたら名前を貸すわけにはゆかない、と言った。  だが、高石が、魚介類を原料にした単なる栄養食品だそうだし、一般的な表現で書かせるので絶対に迷惑をかけない、と言うと、彼は承知せざるをえなかった。  そこで、高石はさらに、  ——毎日食べると健康に良い、そんな一文に先生のお名前だけ貸していただけば結構だそうです。知人は君島友吉という男なんですが、もちろん、推薦文の見本は、事前に先生にお見せするように言っておきます。  とつづけ、自分はあくまでも君島を紹介しただけの第三者を装い、あとは君島に十万円の礼を包んで稲垣を訪ねさせ、直接交渉をさせた。  だから、ヘルス・ワン騒動が起きたとき、「君島という男も友ヘルスアカデミーという会社も知らなかった」と稲垣が言ったのは、嘘である。高石が君島を説得し、「何か問題が起きたときはすべて友ヘルスアカデミーが責任をとる」と君島に言わせたため、稲垣はそう言い張ったのである。  次は、高石と君島の関係だが、これも高石の東京時代に始まった。  同じ証券会社に勤めていたのだ。  君島は父親の故郷が高石と同じ松江で、自分も幼い頃そこで暮らしたためか、会ったときから高石に親しみを寄せてきた。そして、君島が客から預かった株券を勝手に売買して儲けている事実を知ったとき、高石は相手の優位に立った。それをタネに脅したわけではないが、高石は親分肌のところがあったし、逆に君島は人の言いなりになる三下奴《さんしたやつこ》的な性格だったので、何となく二人は親分・子分のような関係になったのである。  この関係が決定的になったのは、君島が株の不正売買で大やけどをしてからだった。他人の株をなにがしか儲けて売り、下がったところでまた買い戻しておくつもりだったのに、その株が予想に反して棒上げしてしまったのだ。  君島は青くなった。このまま放置したら、不正がバレて会社を首になるだけでは済まない。両手が後ろに回る。といって、彼には、上がってしまった株券を買い戻す金はなかった。そのとき、高石は、いつか大きな役に立つときがくるかもしれないと判断し、君島に金を貸すという一つの�投資�をしたのである。  二人の関係は、君島が会社を移り、高石が松江へ帰ると、十年ほど途絶えた。  だが、高石食品が東京に出張所を設けた八年前から、高石は月に一、二度上京するようになり、君島のほうから連絡してきて再会した。  交際は復活し、君島は、いずれ自分も松江へ行き、何か商売をしたい……そんな話をするようになった。  高石が日下峰子と知り合ったのは、それから四、五年してからである。パープルのママ安藤靖江は忘れていたが、彼は一度だけ君島と一緒にパープルへ行ったことがあった。君島がどう話をつけたのか分からないが、その晩、高石は峰子とホテルへ行き、泊まった。  峰子は高石を好きになったと言った。高石も、寝る相手として悪い女じゃないという気がした。それで、上京すると二度に一度は会うようになり、やがて、五反田にマンションを借りてやり、峰子は彼の東京妻のような存在になった。  その後しばらくして、大阪に住む君島の父親が死んだ。君島に、父親が松江に持っていた三百坪ほどの土地が遺《のこ》され、彼は前にもまして松江行きを口にしだした。高石の援助を期待してのことだった。  その頃、高石は、いずれは国会議員に……という野心を実現する前段階として、次の次あたりの県議選に出馬するつもりでいた。とはいえ、問題は選挙資金をどうやって準備するか、であった。ずっと急成長をつづけてきた高石食品は、二年ほど前から経営があまり芳しくなかった。新工場を造って、巨額の負債が残っているのに、売り上げは頭打ちである。となると、金は別のところから手当てしなければならない。  頭を悩ましていた高石に、一つの策が浮かんだ。君島を利用し、彼に健康食品会社をやらせる方法である。現在の健康食品ブームにうまく乗れば、短期間に数億円程度の儲けは手にできる。  万が一、問題になっても、自分の名を表に出さないでおけば、安全だった。君島に責任を被せ、トカゲの尻尾切りをすればいいのである。  君島に話をすると、彼は二つ返事で乗ってきた。 〈資金はすべて高石が用意し、収入はこれまでの三倍程度は保証する。ただし、どんな事態になっても高石の名は出さない。妻にも言わない〉  これが条件である。  君島は了承した。  どういう食品を作るかは、それから二人で研究した。稲垣の利用を思いつき、彼に電話した。  君島には、稲垣との関係は昔の知り合いだと言っただけで、詳しい話はしなかった。  稲垣の名を冠したヘルス・ワンの推薦文は、高石と君島の二人で書いた。  それは二種類用意し、実際の広告に使ったのとはまったく違う、当たりさわりのないほうを、稲垣に知らせた。証拠を残さないよう、電話で君島が読み上げ、稲垣に了解させたのである。  友ヘルスアカデミーが創設され、ヘルス・ワンが売り出された。  高石の読みは的中した。  半年ほど経つと、売り上げが急速に伸び始めた。  健康雑誌や新聞折り込みチラシに載せた、慶明大学医学部教授の顔写真付きの推薦文——薬事法違反すれすれのコピー——が、効を奏したらしい。  君島は製造が間に合わないぐらい忙しくなり、高石の懐には大きな儲けが転がり込んできた。  だが、一年ほどした頃から、ぽつぽつ抗議の手紙が友ヘルスアカデミーに寄せられるようになり、この秋、佐江田緑がマスコミに働きかけ、中央日報にヘルス・ワンの被害を報じる記事が載った。  同時に、被害者の会が結成され、稲垣も自分の関知しない「推薦文」が使われていた事実を知って驚き、君島に抗議してくると同時に、高石にも事情を問い合わせる電話をかけてきた。  高石は、あれは友ヘルスアカデミーが勝手にやったもので、問題になるまで自分も知らなかった、と嘘をついた。  そして、口先だけ、  ——先生には本当に申し訳ない結果になってしまい、どうお詫びしたらいいか……。  と、ひたすら低姿勢になって謝罪し、  ——君島さんを信用して先生を紹介したのに、好意を踏みにじられ、私も弱っています。先生ほどご高名でなくても、私も市会議員という公職の末席に連なっている者ですから。  と、自分も被害者の立場を装った。  一方、君島に対しては、悪いようにしないから、稲垣が何を言ってきても突っ撥《ぱ》ねろ、マスコミには「稲垣に書いてもらったものだ」と言い張れ、と命じた。  こうした高石の対処の仕方の裏には、稲垣が高石との関係を明らかにしてヘルス・ワンに関わった経緯を弁明することは絶対にできないだろう、という読みがあった。  ところで、「被害者の会」が結成されるや、高石は逸《いち》早く峰子を被害者の家族に仕立て、スパイとして会に送り込んでいた。会員たちの動きを探り、できれば強硬派を抑えるためである。  その峰子から、一番の強硬派は佐江田緑という子供を亡くした女であり、会は君島と稲垣を相手に賠償訴訟を起こすと同時に、二人の刑事責任を問うため検察庁に告発するらしい、と聞いた。  その事実を知ったとき、君島は狼狽した。これ以上、自分だけで対処することはできない、と高石に泣きついた。高石の名を出さない、という初めの約束を破るのは時間の問題に見えた。  前後し、稲垣も、君島に何度電話しても逃げていて東京へ出てこないので、松江へ行って彼に会うつもりだ、と言ってきた。彼にすべての罪を認めさせるため、証人として高石にも同席してくれ、というのだった。  高石は、先生にご迷惑をかけたお詫びのためにもぜひそうしたい、と答えてから、次のように言葉を継いだ。  ——ただ、君島さんは私がかつて闇金融をしていた事実を知っていますので、破れかぶれになると、それを公表されるおそれがあります。そうなると、先生と私との関係も明らかにせざるをえなくなるかもしれません。ですから、まず先生お一人で彼と話し合っていただけませんか。それで、どうしても埒《らち》が明かないとなったら、そのときこそ私も一緒にお会いします。いかがでしょう?  稲垣は、自分の過去が明らかになるのを最も恐れていたので了解し、同時に、高石は、君島の殺害を決意した。  すでに、方法の大筋は、高石の頭の中に描かれていた。  自殺にみせかけて殺す方法だ。  稲垣が君島に会いに山陰へ来ると聞き、その方法に、万一殺人を疑われた場合は稲垣に警察の目が向くようにする、という計画を加えたのである。  高石は、今度も、稲垣に怪しまれないよう、あくまでも君島の陰に隠れた。自分は表に出ず、背後から君島を操って、十月二十五日の夜九時に境港のフェリー乗り場で稲垣と会う約束をさせた。そして、当日の昼になってから君島に電話し、夕方自分(高石)の家を訪ね、自分がいなかったら、妻に「また明日来る」と伝言して境港の旧魚市場——フェリー乗り場との距離は約四百メートル——へ行っているよう、命じた。稲垣から連絡があったので、自分がフェリー乗り場で彼と会い、魚市場まで連れて行くから、と騙《だま》したのだ。  高石食品の場合、緊急の仕事がないかぎり、社員たちは遅くとも八時には帰る。二十五日はもっと早く、七時前にはみないなくなった。そこで、やりかけの仕事を済ましてしまうからと言って居残っていた高石は、八時過ぎにそっと会社を抜け出し、境港まで車を飛ばした。  境水道に面した旧魚市場は、昼の短い時間を除き、いつもひっそりとしている。そこに駐めた車の中に、君島が待っていた。  君島は、高石が一人で来たのをちょっと訝しんだが、「稲垣は遅れてくる」と言うと、それ以上は怪しまなかった。  外で待っていよう、と彼を誘い、川(水道)に沿ったコンクリートの上を歩いた。もう水は相当冷たいし、彼が泳げないのを、高石は知っていた。  あとは、辺りに人気がないのを確認して勢いよく体を押すだけで、よかった。  君島は助けを求める声を上げる間《ま》もなく、黒い水に呑まれていった。  君島の死は、高石の狙い通り、警察によって自殺と判断された。稲垣は、それを知って高石に電話してきたが、彼を疑っている様子はなかった。  そこで、高石は、  ——先生とどこかでお会いする約束でもしていたんじゃないんですか?  と、惚《とぼ》けて訊いた。  稲垣は、フェリー乗り場で会う約束をしていたのに君島は現われなかったのだ、と答えた。  ——僕に会って追及されたら、言い逃れできないので、結局死を選んだんじゃないですかね。  ——本当に、先生は彼と会っていないんでしょうね?  ——会っていない。あ、あなたは僕を疑っているんですか?  ——そういうわけじゃありませんが、警察が君島さんと先生の約束を知ったら、あるいは先生を疑うんじゃないかと……。  ——何を言うんだ。僕は関係ない。  ——もちろん私は先生を信じていますが。  高石は、ここでも巧みに優位に立ち、稲垣に自分を疑う余裕をなくさせた。  彼は、これでひとまず安心だった。  君島の死によって、被害者の会による追及の矛先は鈍り、高石が黒幕である事実を突き止められる危険はほぼ消えたからだ。  ところが、そう思ったのも束の間、会の最強硬派である佐江田緑に接近させていた峰子から、新しい報告が入った。  それによると、数人の会員だけは、友ヘルスアカデミーの関係者と稲垣の責任をあくまで追及する構えを解かない。なかでも緑は、たとえ一人になっても戦うと言っている。しかも、彼女は峰子に、「もしかしたら君島の裏にもっと大物がいたのではないか」と洩らした——。  峰子の報告に前後し、稲垣からも電話がかかってきた。彼は緑から「徹底的な責任|糺明《きゆうめい》」を宣言され、ふたたび窮地に追いつめられていた。  ヘルス・ワンの推薦文は自分が書いたものでないと証明するには、君島が死んだ今となっては、高石を頼るしかない。といって、高利貸しの手先をし、二人の男女を死に追い込んだという過去はどうしても世間に知られたくない。だから、高石に、昔の関係には触れず、推薦文を頼まれた経緯だけ明らかにして自分の無実を証明してくれないか、というのだった。  高石は、君島を紹介した責任からもできればそうしたい、と答えた。だが、単に昔の知り合いというだけで、世間は信用するだろうか、と疑問を付け加えた。  稲垣が、とにかく近いうちに松江へ行き話し合いたい、と言った。  高石は了承し、一つの計画を練り始めた。  緑を殺し、その罪を稲垣に被せてしまう計画である。  稲垣は緑に脅されている。責任を徹底的に追及してやるからな、と首筋に刃を突きつけられている。つまり、彼には緑を殺す強い動機が存在する。  それなら、アリバイを奪っておけば、彼には逃げ道がない。  絶対的な窮地に追い込まれれば、稲垣は過去のキズを晒してでも、無実を叫ぶだろう。が、逮捕される直前までは安全とみてよかった。少なくとも、高石に無断で彼との関係を明かすことはないにちがいない。  とすれば、稲垣が口を開く前に、彼も消してしまうのである。秘密を知り過ぎた峰子と一緒に。  高石は、緑は殺さず、稲垣だけを消す計画も検討した。  だが、それでは、完全な決着にはならなかった。危険な根が残った。稲垣を殺した動機が疑われ、緑の追及如何によっては、高石まで到達しないともかぎらない。  一方、「稲垣が緑を殺し、彼の犯行を手伝った峰子と心中した」となれば、ヘルス・ワン騒動を含めた事件のすべてに幕が下ろされるだろう。  彼の計画にとって好都合なのは、峰子との関係を知る者は死んだ君島以外にいない、という点であった。彼女のマンションへ行くときはサングラスをかけていたし、彼の顔をはっきり見た者はいないはずである。背丈、体付きも、偶然ながら稲垣と似ていた。  あとは、峰子の部屋から指紋などの彼の行った痕跡を消し、万一疑いが向けられたときのためにアリバイを用意すればよかった。  アリバイに関しては、君島を殺したときから、もしかしたらまた殺《や》らなければならないかもしれない、と思い、考えてきた一つのトリックがあった。実行に移すには多少修正しなければならないが、完璧と言えるトリックである。  高石は、峰子と連絡を取り、緑を山陰へ誘い出せるメドがついたとき、計画の実行を決めた。  峰子が緑を騙すとき口にしたのは、次のような言葉だった。  ——佐江田さんの言っていた〈君島の裏に誰かいたんじゃないか〉という点について、お店に興信所に関係しているお客さまがいたから、ちょっと調べてもらったんです。そしたら、関係ありそうな情報を提供してくれる人がいるって、知らせてきてくれたんです。でも、その人の事情で絶対に名前は出したくない、他の会員に知らせず、私と佐江田さん二人だけで米子まで来るなら会ってもいい、そう言っているらしいんですけど、どうしますか?  緑は、峰子がスパイだとは夢にも思っていない。だから、ぜひ会いたい、と話に乗ってきた。  そこで、今度は高石が稲垣に連絡を取り、十一月九日に米子で会う約束をした。  中国自動車道が八日、九日、十日と通行止めになるからだ。  たとえ中国自動車道が通れても、米子に置いておいた緑の死体を日御碕まで運んで捨て、朝八時五十五分に出雲空港を飛び立つJAS610便大阪行きに乗るのは不可能である。が、中国自動車道が通行不能となれば、九時五十分のJAS272便東京行きにも乗れなかったことになり、昼前後に東京へ現われる手段は完全に消え、アリバイがより完全になる。それに、九日なら、文化の日も過ぎた週日だし、列車や飛行機が空いているだろう(計画通りに一つでも切符が取れなかったら日時を変更するつもりだったことは、言うまでもない)。  一方、峰子のほうは、飛行機やホテルの手配は私がするから、と緑に言い、情報提供者の都合に合わせて九日の夕方皆生温泉で会う約束になった、と告げた。そして、事が緑主導で運ばれたように見せるため、ホテルの予約など、すべて緑の名で申し込んだ。  計画通りに高石が移動するための列車と飛行機の切符は、峰子が買った。高石が偽名で申し込み、彼女に東京と大阪で購入させたのである。それから、自分の車を含めて三台の車を用意し、七日と八日の二日間つかい、一台は米子に、一台は大阪空港に、一台は京都駅の近くに配置した。  九日から十日にかけての移動の経路は、壮の推理した通りである。  出雲市で「出雲4号」に乗り、米子で降りて皆生温泉まで車で行くと、峰子が、皆生ビーチホテルにチェックインした後で緑を誘い出し、人気のない松林脇に待っていた。  そこで、高石は車から降り、「情報提供者」を装って挨拶。後部座席に乗るよう二人を促し、緑が背を見せて体を屈めたとき、持っていた紐を後ろから首に掛け、一気に絞めたのである。  死体をトランクに入れると、車は峰子が運転。タクシー会社の営業所前で高石をおろし、米子駅近くの空地——前日高石が車を駐めておいた場所——まで運んでおいた。それから、彼女は七時半頃ホテルへ帰り、絶対に緑の死体を日御碕まで運べない状況を作った。  一方、高石は、タクシーで米子空港へ急ぎ、七時三十五分発の大阪行きJAS680便に乗り、大阪空港からは車で綾部まで行って、「出雲4号」に追いついた。  出雲4号二号車内のハンドバッグ盗難騒ぎの演出、その様子をテープレコーダーに録音し、そのとき列車に乗っていたようにみせかけた方法、京都の手前で車掌に話しかけ、ずっと乗っていたように錯覚させた点、ふたたび京都で降り、福知山まで車で行って下り「出雲1号」に乗り、米子まで行った点、緑の死体を積んだ車を米子から出雲空港の近くまで移動し、それを後から来る峰子にバトンタッチできるようにしておいた点、その後、JAS610便、JAL110便と乗り継いで東京まで行き、十二時十五分頃、蒲田の東京出張所へ現われた点……などは、壮の推理した通りである。  その晩、出雲北署の捜査本部へ、「稲垣という男を調べろ」と電話したのは高石であった。  ところで、稲垣が九日の夕方——美緒と富山幹平が目撃したとき——出雲市駅から立席特急券で「出雲2号」に乗り、米子まで行ったのは、高石が彼を出雲へ呼び出して会ったからである。初め緑たちの泊まる皆生温泉に近い米子で会う約束をし、稲垣に米子のホテルを予約させてから、急に取引き先を訪ねた足で東京へ行かなければならなくなったので出雲市で会いたい、と東京の稲垣に電話したのだ。二人が会ったのは昼だが(高石の運転手はその後で迎えにきた)、稲垣は高石と別れた後、出雲大社にお参りしたため、夕方になったらしい。  稲垣の希望に沿ってできるかぎりのことはする、と高石が約束したため、稲垣の心に大社にお参りする余裕が生まれたのかもしれない。  また、六時に皆生ビーチホテルにかかった男の電話は、壮が考えた通り、峰子がホテル内の公衆電話からかけた。交換係が出たところでテープに録音しておいた高石の声をつかって自分たちの部屋を呼んでもらい、緑が出ると峰子の声に戻り、彼女と二、三分取りとめのない話をして切ったのである。  十一日の午前十時過ぎ、前日東京へ来ていた高石は稲垣の大学へ電話し、「緑の殺されたニュースを見たか?」といかにも驚いた口調で訊いた。そして、稲垣が見たと答えたので、日比谷のホテルの喫茶ルームで会った。  稲垣が山陰へ行ったとき、一度は君島が「自殺」し、二度目は緑が殺された——。  稲垣は、緑が死んで内心ホッとしたらしいものの、この符合を当然怪しんでいた。まだ高石を疑っている様子はなかったが、このままだったら、いずれ疑うだろうことは予想できた。  そこで、高石は君島を殺した後と同じように、自分のほうから、「失礼ですが、本当に先生は事件に無関係なんでしょうね?」と、疑うように言った。  すると、稲垣は頬を紅潮させ、もちろんだ、と怒った口調で答えた。  ——しかし、先生の他に、動機のありそうな人間が思いつかないんですが……。  ——し、しかし、僕じゃない。  ——となると、これはもしかしたら先生を罠《わな》にはめる誰かの計略だったのかもしれませんね。  ——計略?  稲垣が不安そうな顔をした。  ——ヘルス・ワン騒動にかこつけて先生を陥れようとしそうな人間に、心あたりはありませんか?  稲垣が首をかしげて考えていたが、  ——そんな人間がいるとは思えない。それより、私があの日山陰へ行っているのを知っていたのは、高石さん、あなたぐらいしかいないはずだが。  ——先生こそ、私を疑っているんですか!  高石は声を高めた。  ——いや、そういうわけではないが、もし誰かが僕を陥れようとしているなら、どうして僕の行動を知ったのかと思ってね。  ——確かにそうですね。しかし、私を疑われるなんて、それこそ、お門違いもはなはだしいですよ。私は君島さんの相談に乗ってやり、先生をご紹介しましたが、ヘルス・ワンや友ヘルスアカデミーとは関係がないんですから。つまり、私は、佐江田さんという方とは何の関わりもないんです。  だいたい、九日の晩、私は、『出雲4号』に乗って東京へ向かっていたんです。もしお疑いなら、車掌さんに訊いてみてください。深夜零時頃、京都へ着く少し前まで起きていましたし、何度も車掌さんと言葉も交わしていますから。  高石はまったくもって心外だという態で、抗弁した。  ——申し訳なかった。  稲垣が謝った。  ——分かっていただければ結構です。先生の言われるのも、考えてみればもっともな話ですから。これは、ひょっとしたら何かもっと裏があるのかもしれませんね。  ——裏?  ——私にもよく分かりませんが、君島さんの背後に、私や先生について知っている人間がいたのではないか、ということです。もちろん君島さんに聞いてですが。どうも、そうとしか考えられません。  ——では、その人間が佐江田さんを?  ——ええ。先生、もう一度よく考えてみてくれませんか? 先生の山陰行きについて、誰と誰に話されたか。  ——当然、妻には話したが、他には……。  稲垣が途中で思い出したらしく、「アッ!」という声をあげた。  ——何か?  ——僕の家に電話し、妻から僕の予定を訊いた男がいたよ。来週どこかへ出かける予定があるか、と言ったというから、先週の金曜日、四日頃だったかもしれない。製薬会社のプロパーを名乗り、見本を届けたい、という話だった。  妻に聞いたとき、ちょっと変な話だなと思ったものの、いろいろな業者が病院へ出入りしているので、高石さんにいま言われるまで、それが怪しいとは気づかなかった。  ——では、その男が先生の行動予定を探った?  ——その可能性がないだろうか。  ——大いにありますね。いや、それしか考えられません。その男が、先生が山陰へ行かれるのを知って、罠を仕掛けたにちがいありません。  高石は言った。  実は、その電話は、自分に対する稲垣の疑いの目を逸《そ》らす目的で採った高石の行動だった。  ——それにしても、いったい誰が……?  ——誰かは分かりませんが、これは、様子を見る必要が出てきましたね。  ——様子を見る?  ——ええ。ここで、私が先生とちょっとした知り合いだったので君島さんに紹介した、ヘルス・ワンの推薦文は君島さんが勝手に書いたものだ、と説明したりしたら、警察は信じるどころか私たちに疑いの目を向けるに決まっています。私と先生がグルになって死んだ君島さんに責任を被せようとしている、そうとられる危険が多分にあります。先生は、君島さんが亡くなったとき、今度の事件のときと、いずれも山陰へいらしていたという符合から、殺人犯人として疑われるかもしれません。そうなったら、真犯人の思うつぼです。  ——では、どうしたらいいのかね?  ——しばらく成り行きを見守る以外にないんじゃないでしょうか。一番の問題は警察がどう動くかですが、これで何事もなくヘルス・ワン騒動が鎮まってくれれば、何もしなくていいわけですし。ただ、万一、先生が窮地に追いつめられるような事態になったら、そのときは仕方ありません、お互いに覚悟を決めましょう。私たちの過去の結び付き、キズを含めてすべて明らかにしましょう。私たちがすべての事情を包み隠さずに明かせば、警察も信じるはずですから。  ——…………。  ——ただし、先生、そのときは一緒ですよ。私も勝手に先生の過去を明かさないかわり、先生も私に相談なしに私の名を出さないと約束して下さい。私にとっては今後の政治生命がかかっていますので、後援会の主だった人たちに先に事情を説明しておかなければなりませんから。  稲垣が、「分かった」と答えた。  こうして、高石による自分も被害者にしてしまう巧みな論法に騙され、稲垣はいっそう深く罠にはまっていった。  そして、彼に対する警察の疑いが強まり、にっちもさっちもゆかなくなったとき、遂に、過去のキズを晒しても……という覚悟を決め、相談したいと高石に電話してきた。  高石は、峰子を鳥取に止めおき——初めは二、三日東京へ帰らずに様子を見たほうがいいと言い、後は適当な口実を設けて引き延ばし——そのときを待っていた。  だから、かねてからの計画通り、�警察が尾行していたら落ちついて相談する前に逮捕されるおそれがあるので、「出雲1号」の切符を松江まで買い、福知山で降りるように�と稲垣に指示した。  福知山まで迎えに行っているから、車で松江へ帰りながらゆっくり相談し、その足で一緒に県警本部へ行き、事情を説明しよう、と言ったのである。  稲垣だって、第三者の立場に立って冷静に考えれば、高石に不審を覚えたにちがいない。彼を疑ったにちがいない。だが、稲垣は窮地に追いつめられ、焦っていた。犯人が誰かという問題より、高石の証言を得て、何とか自分の容疑を晴らそうとすることで頭がいっぱいだったのだろう。それに、製薬会社のプロパーを装って彼に電話してきた男の存在(実は高石だが)も、高石に対する疑いを逸らす役割を果たしていたと思われる。  高石の指示通り、彼は「出雲1号」の車両を移動して福知山で降り、待っていた高石の車に乗り込んだ。  高石は車を走らせながら稲垣と話した。証人になることを約束し、二人の過去のキズは明らかにせざるをえないが、これで稲垣の殺人容疑は消えるだろう、と言った。  鳥取に近くなったとき、高石が喉が渇いたと言うと、稲垣も渇いたという。これは、暖房を利かしておいたからだ。  そこで、車を停め、自動販売機から冷たいコーヒーを二缶買ってきた。  一方を稲垣に渡し、一方を無造作に開けて一気に飲んだ。  稲垣の見ている前で買ったのである。たとえ彼に高石に対する疑いの気持ちがあったとしても、警戒しなかっただろう。  稲垣は高石に誘われるようにして勢いよく飲み、あっけなく死んだ。  もちろん、その缶には青酸カリが混入されてあったのである。  どうしたのかというと、彼らが来る少し前、峰子が青酸カリを入れて透明な接着剤で封じた缶コーヒーを自動販売機の取り口に入れておいたのだ。つまり、高石はコインを入れて二缶買ったものの、一方は取らず、代わりに、峰子の置いておいた缶を取ってきて稲垣に渡したのである。  峰子がレンタカーで現われた。  高石は、稲垣の死体を助手席に寝かせ、鳥取砂丘西口の駐車場まで運んだ。  峰子のレンタカーも、四、五百メートルの間をおいて後につづいた。  砂丘駐車場に着いたところで、高石は手袋をはめた手で峰子の首を絞めて殺し、二つの死体をレンタカーの運転席と助手席に横たえ、心中にみせかける擬装をほどこした。  その後、自分は車で松江の自宅へ戻ったことは言うまでもない。  ところで、峰子が高石の意のままに動いたのは、金のためである。  すべての罪を稲垣に被せて消してしまえば、峰子には緑の死体を日御碕まで運べなかったというアリバイがあり、多少調べられても安全だ。事が決着したら、峰子の望んでいる自分の店を持つ資金を出してやる。高石はそう言っておいたのだ。 エピローグ 「今、日御碕のあたりは海が荒れ、松江では雪が降っているそうです」  壮が言った。 「そう。たった十日前、私たちが行ったときは、東京とあまり違わないな、と思ったのにね」  美緒は答えた。 「でも、東京も、この十日でだいぶ寒くなりましたから」 「ま、そうね」  美緒は笑いながら壮の顔を見上げ、組んでいた彼の腕をいっそう強く抱きしめ、体を押しつけた。  十二月十三日(火曜日)午後六時過ぎ。  二人は、白山通りを水道橋駅へ向かって歩いて行った。  これから新宿のKホテルへ行き、夕食をご馳走になる。稲垣の義兄の山崎から「お礼に」と誘われ、壮はそうした心づかいは無用だと断わったのだが、どうしても……と言って引かないので、受けたのである。  高石将人が逮捕され、八日経っていた。  最初のうち、彼は頑強に犯行を否認していたらしい。  が、木曜日頃からポツポツと犯行を認め始め、土曜日の夜になって全面的に自供した——そう、美緒たちは若月の電話で聞いた。  高石の弄したアリバイ・トリックは、まさに壮の考えた通りであった。  だから、壮の推理が、高石を自供に追い込む最大の力になったのである。  逮捕前に判明していた、峰子の部屋の浴室換気扇に高石の指紋が付いていた事実は、彼と峰子を結ぶ重要な証拠だった。それに加え、十一月九日の「出雲4号」二号車にワンボックス四人分の寝台券が購入されていながら誰も乗って来なかった事実、七日から十一日にかけて高石が自分の乗用車を含めて三台の車を使用していた事実、なども明らかになった。  とはいえ、〈犯行不可能〉というアリバイの壁があるかぎり、状況証拠をどんなに並べられても、高石はまだ安全なところにいられた。  ところが、絶対の自信を持っていたそのアリバイの壁を壮の推理によって崩されたうえ、十日朝のJAS610便、JAL110便、さらに、九日の夜米子から大阪へ移動するのに乗ったJAS680便のスチュワーデスの面通し結果を突きつけられた。JAS610便、680便のスチュワーデスたちは、彼に似た男が乗っていた事実を証言し、JAL110便のスチュワーデスは、紅茶を袖にかけた男は彼に間違いない、と証言したのだ。  それにより、高石は逃げきれないと観念したらしい、というのが若月の報告だった。  そして、今日の昼、また若月から壮に電話があり、その後の様子を知らせてきたのである。「松江で雪が降っている」というのは、このときの若月の話であった。 「ところで、富山先生の原稿はあがっていたんですか?」  駅前の歩道橋近くまで来たとき、壮が訊いた。 「うん」  美緒はうなずいた。  今日、美緒は小田原の富山の家へ行き、『「怪談」殺人事件』の原稿を貰ってきたのである。 「先生の小説とは関係ありませんが、僕らも、ハーンの『怪談』のおかげで、アリバイの謎が解けたんでした」 「そうか、そうね……」  別にハーンの「ロクロ首」を読まなくても、壮はいずれ謎を解いただろう。が、それが彼の閃きのキッカケになったのは確かであった。  そう思うと、今度の一連の事件と美緒たちの関わりは『怪談』で始まり、『怪談』で終わったような気がしないでもなかった。  美緒が『「怪談」殺人事件』の取材に行こうとして東京駅で「出雲3号」に乗り込んだとき、見送りに来ていた壮とともに稲垣と顔を合わせた。その事実は直接事件には関係なかったものの、やはり一つの因縁のように思えた。 「それで、小説の仕上がり具合はどうだったんですか?」 「まあまあ、というところかな……。でも、題名に怪談と入れたにしては、内容は怪談ともハーンともあまり関係がないのよね。それより、今度の現実の事件のほうが、なんだか〈怪談・殺人事件〉という感じだったわ」 「〈怪談・殺人事件〉ですか……」  壮がつぶやくように言った。 「そう」 「どうしてでしょう?」 「なんとなくよ。にょろにょろと長いブルートレイン『出雲』はロクロッ首だったわけだし、ね?」  美緒は彼に微笑みかけると、その腕を抱きしめて駅の構内へ入って行った。  が、何事も論理で解き明かさなければ納得しない彼女の恋人は、なぜ〈怪談・殺人事件〉なのか、まだ分からない、という顔をしていた。 (了) 〈池野誠著『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社)を参考にさせていただきました。 列車と飛行機のダイヤは一九八八年一〇月号の時刻表に拠っています。 なお、本作品はフィクションですので、作中に出てくる人物、団体、商品等は実在のものと一切関係ありません〉 本作品は一九八九年三月、小社より講談社ノベルスとして刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九二年一月刊)を底本としました。